日本カーオブザイヤーはなぜ、単なる「お祭り」に成り下がったか

 

最初の1987-1988COTYの記憶は鮮明だ。三菱のギャランVR-4、日産ブルーバードアテーサ、マツダカペラがこぞって4WD、4WS、4バルブDOHCターボといったハイテク装備で覇を競い合い、プレリュードの機械式4WSなどが入り乱れての5ナンバー小型車枠にハイパフォーマンスの機運が最高潮に達した。

それでも私は頑なに持論に従った。日産としては異例の文系開発主管が登用され、それまでハイオーナーカーとして位置づけられたY31型セドリック/グロリアにグランツーリスモという2l V6ターボモデルをラインナップ。FRに拘りを持つ者としては評価しないわけには行かなかった。

バブルに至るプロセスで日産は作れば売れる状況に過剰投資に走る一方、財テクに熱を上げ、後に膨らんだ有利子負債によりルノーに力を借りての日産リバイバルプランでの再生を期すことになるのだが、Y31の開発主管で常務役員で日産でのキャリアを終えたMさんの「売れるからとにかくクルマを寄越せ! 販売店からの要求に応えるなというのは土台無理な話ですよ」時代に翻弄された思いを語る姿を思い出す。

S13シルビアから500万円の価格が社会現象となったシーマを経てR32スカイライ
ンGT-R、Z32フェアレディ、P10プリメーラ、Q45に至る901計画に突き進む。同じくバブルの勢いに乗って販売店の5チャンネル制に舵を切ったマツダも、ユーノスチャンネルの象徴としてのロードスターという文化資産以外に今につながるモデルがないという事態に陥った。

ホンダも時代の荒波に翻弄された。1980年代に軌道に乗った4輪事業だが、国内の小型ハイテク/ハイパフォーマンス路線と北米の量産モデル中心のバランス取りに腐心し、NSX・ビートという後輪駆動スポーツを輩出するがバブル崩壊後の中心軸を失う。80年代から続いたRVブームに税制改革を先取りしたディアマンテの成功で湧く三菱の傘下に収まるのでは? まことしやかな噂も今は昔ということになる。

飛ぶ鳥の勢いを見せた三菱は、ディアマンテの試乗会を南カリフォルニアで行った。時はバブル崩壊前夜。1990年当時、次期社長の呼び声の高かった鈴木元雄常務の同乗を仰いでの試乗だったと記憶する。

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