日本カーオブザイヤーはなぜ、単なる「お祭り」に成り下がったか

 

カーオブザイヤーは単なる良いクルマ選びと違う。年グルマ選びのお祭りなのだ

その人柄と仕事ぶりに「この人がトップに就けば……」量産初の市販直噴ガソリンエンジンGDIに始まる不祥事の連鎖は起きなかった。三菱GDIの開発を主導した元社長が同じ技術畑出身で有能を謳われた鈴木常務の台頭を恐れて抜擢人事を行ったことが三菱転落の原点といわれている。

1990年代前半には三菱の岡崎研究所との交流も深く、技術陣と深く議論を交わすことも多かった。印象に残るのは1994年の夏。10月に発売されるFTOの事前評価で岡崎に呼ばれた。COTYのノミネート対象モデルという含みもあったようだが、国産初のシーケンシャルモード付きATという新機軸を備えた往年のスポーツクーペの復刻版。これはCOTY選考委員の顔触れを考えるとイヤーカーの可能性十分ありますよ。

伝えると担当広報マン、喜色満面で頷きすぐに行動に移った。結果的にFTOは1994-1995COTYを獲得するのだが、私の10ポイントは別のクルマに配点されている。結果については異論を差し挟まない。すでに述べた通りで、賞典はその年を物語る年グルマに与えられるもので、決定に至るプロセスはお祭りの雰囲気こそ相応しい

その視点を失うと、堅苦しさの中に活力が奪われることになる。個人個人の誠実な対応に期待する他はないが、決まった事実は社会の現実を踏まえたもの。異論は呑み込み尊重するのが筋というものだ。

似たような経験は他にもある。1997-1998COTYのプリウスに始まるトヨタの3連覇
世界初のハイブリッド量産車プリウスの高評価は95年のカリフォルニア州のZEV法を現地取材して以来の必然であり、翌年のアルテッツァは10数年来のFRセダン待望論に沿う。

続く1999-2000COTYはホンダが29年ぶりにFRスポーツに回帰するS2000のノミネートが確定していた。当然私の10ポイントの行き先は決まっていたが、ホンダの広報部長のCOTYに賭ける意欲の薄さが洩れ伝わった。これはトヨタ渾身のグローバルコンパクトカーヴィッツにも勝機がある。

そこからのトヨタ広報の動きは迅速で、予定されていた沖縄試乗会にも念が入れられ、賞獲りには縁遠かったトヨタが3連覇を成し遂げることになった。もちろん私の意見など微々たるものに違いないが、思った通りに事が進んだことは少なくない。

print
いま読まれてます

  • 日本カーオブザイヤーはなぜ、単なる「お祭り」に成り下がったか
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け