【書評】「元」中国人と残留孤児二世が語る世界一危ない国・中国

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中国人として中国で生まれ育つも後に日本に帰化した男と、残留孤児二世として中国に生まれ日本に帰国、再び中国に渡り10年間北京に駐在していた男…。そんな二人による中国に関する対談が評判となっています。幼い子どもたちが「世界で一番幸せな国」だと洗脳され続けてきた国・中国の現状を独自の視点で語る話題作を、無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』の編集長・柴田忠男さんが詳しく紹介しています。

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私たちは中国が世界で一番幸せな国だと思っていた わが青春の中国現代史
石平×矢板明夫・著 ビジネス社

石平×矢板明夫『私たちは中国が世界で一番幸せな国だと思っていた わが青春の中国現代史』を読んだ。矢板は産経新聞外信部次長、元北京特派員。なぜこの二人の対談なのか。年齢も住んでいた場所も違ったが、中国についての認識はほとんど同じだからだ。矢板は1972年、文革の真っ最中に「中国残留孤児二世として天津で生まれ、15歳まで中国で育った。

2007年春から2016年末まで産経新聞の特派員として約10年間、北京に駐在した。チベット騒乱、四川大地震、北京五輪、習近平政権の発足など、多くの歴史的場面を取材した。いまの中国は、世界2位の経済大国になったが、一部の特権階級を除きほとんどの中国人は幸せになっていない、というのが実感だという。

石平の生まれは1962年で、まだ大多数の人民は飢饉に苦しんでいた。毛沢東の大躍進が失敗に終わった後の数年間、中国では推計3,000〜4,000万人という餓死者が出た。当時、石の両親は四川省成都でともに大学で教鞭をとっていた。その頃の共産党の支配は完璧で、石の親戚一族が何人も餓死していたのに、全く知らされされなかった。1966年、4歳の時あの恐怖の文化大革命が始まった

矢板は天安門事件が起きる一年前1988年に、日本に帰ってきた。所沢の中国帰国者定着促進センターに送り込まれた。自分自身でなんとかアイデンティティの問題に決着をつけて、松下政経塾に入って政治家を目指した。天安門事件については、ある意味冷静に見られたという。29歳で産経新聞社に入社した。

石が北京大学を出てから来日したのは、矢板と同じ1988年。最初の一年間は大阪の日本語学校に通いあいうえおから学んだ。学費は居酒屋の厨房でアルバイして得た。1年後1989年に神戸大学大学院の修士課程に進学した。6月に天安門事件が起きた。その晩、人生最大の転機を迎えた。いままでやってきたことをすべて清算した。中国という国のために石がやって来たことは無意味だった

今後自分が中国のために何かをすることは二度とない。自ら中国という国とは絶縁した。大学院を出て民間の研究所に就職した。帰国するたびに感じたのは、二つの変化で、中国人の反日感情の高まりとエリートほどその感情が強くなっていたことだ。大学の仲間たちの心は様変わりした。民主化運動にあれほど情熱を燃やした連中は、天安門のことは忘れ、あるいは忘れたふりをしていた。

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