茶道の中心地として知られる京都では、ふらりと散策するだけで多くの茶室と出会うことが出来ます。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英 学(はなぶさ がく)さんが、さらに散策が楽しくなる「茶道の基礎知識」をレクチャーしています。
茶の湯と三茶匠
茶の湯は15世紀ごろ禅僧の村田珠光によって考案されました。弟子の武野紹鴎はそれを茶道という芸術の一分野にまで発展させます。さらにその弟子の千利休が堺の商人を中心として侘び寂びに代表される草庵茶室を完成させた。
利休没後は茶道が大名によって継承されるようになりました。茶室も草庵風から書院風に変わりより華やかな「綺麗さび」と呼ばれるようになり、織部流や遠州流と言われる流派も発展します。
利休の孫、宗旦の次男・宗守は武者小路千家、三男・宗左は紀州徳川家に仕え表千家、四男・宗室は加賀前田家に仕え裏千家として受け継がれていきます。
表千家
利休の没後、息子の少庵はキリシタン大名で利休七哲の一人、蒲生氏郷にかくまわれていたが1593年に現在の場所に千家を再興し、三畳台目の不審庵を完成しました。その後宗旦、宗左によって改良されました。
裏千家
3代目宗旦は1646年、表千家を宗左に譲った後、自らは隠居所を建て裏千家を名乗りました。これ以上小さくすることが出来ないという利休の1畳半の茶室を写して建てられたのが今日庵です。
武者小路千家
宗旦の次男・宗守は高松藩の茶頭をしていましたが、1667年隠退し武者小路千家を興します。その時建てた茶室が究極の極小空間である一畳台目の官休庵です。
藪内流
藪内家初代の剣仲紹智は古田織部が自刀する直前の1615年に、織部から燕庵を譲り与えられます。2代目真翁(しんおう)が1640年に西本願寺の茶道指南に迎えられ、本願寺にほど近い現在の場所に居を構えました。
時代が変わり江戸時代、徳川将軍家に利休の茶を継いだのは古田織部や弟子の小堀遠州でした。
三千家は忠実に利休の手法を継承していますが織部の手法は利休と一線を画します。そして遠州は織部の手法をさらに発展させています。
それぞれの違いを細かい部分で見てみましょう。例えば、冬に樹木を霜から守るために茶室の庭園に敷松葉を施すのですが、流派によって違います。利休は露地の掃除を茶会の数時間前にし、散った落ち葉の自然の姿をめでました。織部は松葉だけをより揃えて蒔きました。遠州は巧妙に模様をつけて落ち葉を敷きました。
飛び石に関しては、利休は自然の河原石ばかりを好みました。織部や遠州は切石を定規で測って加工したような手水鉢を用いています。
植栽や石の色彩に関して利休は、極力有彩色を廃しました。織部は豊かな色彩を導入しています。そして遠州は、それをさらに大量に用いました。
このように利休から織部、遠州と手法が継承されるにつれ、露地の意匠が日本古来の自然風景式から整形式へと変化を遂げています。
作法の置き合せもそれぞれ少し違っています。利休の時代は道具を水平に並べるのが常識です。織部は「何れも角懸て」といって、常に角度をつけて道具を置き合せることを強調しました。遠州は角度をつけて置くだけでなく、30度や45度と角度にまでこだわりました。
茶道に詳しくなくても、この程のほんの少しの基礎的な知識があるだけでも、見えてくる景色か変わってきます。流派の違いによる茶室や露地の特徴などがわかると見所がたくさん増えます。その分楽しみも増えることでしょう。
京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。
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