英国に学べ。近視眼的に中国にすり寄る日本に必要な戦略的忍耐力

 

なぜイギリスは、ドイツの勝てたのか?

アメリカの前の覇権国家、イギリス。19世紀、ビクトリア女王の時代に絶頂期を迎えました。しかし、1890年頃には新興国家ドイツに負けつつありました

この当時のドイツは、イギリスを産業革新の面で追い抜きつつあり、その結果としてグローバル市場での競争に勝ち、資本を蓄積し、それをさらにイノベーションにつぎ込むことによって、イギリスが優位を保っていた分野を次々と奪っていた。当時はまだ重要であった鉄鋼産業においても、ドイツの優位は増すばかりであった。また、当時の最先端産業であった化学分野におけるドイツの優位は、すでに絶対的なものだった。
(『自滅する中国』(ルトワック)p90)

覇権国家イギリス、経済分野でドイツに完敗」の様相です。ドイツは、金儲けだけに励んでいたのではありません。儲けた金を、国民に還元もしていました。世界ではじめて健康保険」「労災保険」「国民年金制度」などを作り、国民の幸福増進にまい進していたのです。

「ていうか、イギリスの強さの源泉は、金融でしょ?」

そう思う方もいるでしょう。しかし…。

世界の主要準備通貨としてのポンドの一極支配などによる構造的な優位性の両方が、ドイツ経済の活性化による急速な資本形成によって覆されようとしていた。ハンブルグのヴァールブルク銀行はロンドンのロスチャイルド銀行を抜き去ろうとしていたし、イギリスの最大の銀行でさえもドイツ銀行の前では影が薄くなっていた。ドイツ銀行は一九一四年に世界最大の銀行となり、金融業界で最も競争力のある銀行になっていた
(同上 P91)

1890年、誰もが「ドイツの未来は明るくイギリスの未来は暗い」と考えていました。ところが実際は、どうなったのでしょうか?ドイツは、第1次大戦第2次大戦でイギリスを中心とする勢力に敗北。2次大戦後は、西ドイツと東ドイツに分断されてしまいます。1890年の希望は見事に裏切られ、ドイツの20世紀は、「悲惨」でした。なぜそうなったのでしょうか?

原因はイギリスにありました。1890年当時、イギリスは、フランス、ロシアと「植民地獲得競争」に明け暮れていました。フランスとは、アフリカとインドシナで競走していた。ロシアとは、中央アジアで競争していた。それで、イギリスにとって、

  • 仮想敵ナンバー1=フランス
  • 仮想敵ナンバー2=ロシア

だったのです。ところが、イギリスがフランス、ロシアと争っているうちに、「あれよあれよ」とドイツが台頭してきて、最大の脅威になってきた。それで、イギリスはどうしたか?仮想敵ナンバー1フランスと和解」したのです。英仏は、

  • モロッコ問題
  • ニューファンドランド島問題
  • タイ問題
  • 東アフリカ、中央アフリカ問題
  • マダガスカル島問題
  • ニューヘブリデス諸島問題

などを、急速に解決していきました。1904年までに和解を完了したイギリスとフランス。今度は両国一体化してドイツの海洋進出を阻むようになっていきます。

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