報道は真実を流します。ときには、悲しい真実をえぐることもあります。だから私は、報道にはあまり向いていないと思います。スキャンダラスなものをおもしろいと思いたくないのです。それは私が“表現の自由”だと言われているけれど、犯してはいけない最低ラインがあると信じているからです。これを踏まえた人にのみ、“表現の自由”があるのです。
その気概が今のマスコミにあるのでしょうか?ネットテレビにあるのでしょうか?そう考えると、あるのかもしれないですが、目の前の面倒くささや、アクセス数、視聴率などに踊らされていることも多いのではないでしょうか?
例えば、テレビ番組の編集作業もよく問題になります。テレビ番組に出演する際に、OA時間の関係で意図的に編集されてしまうみたいな不安など、テレビでは自分の考えが正確に伝わらないと思っている文化人や研究者の方が多いのが事実です。 そしてそれはあながち間違っていないのも事実です。
実際そういうトラブルが頻繁におこります。でも私は、自分の番組では少なくともそんな編集をしたことがありません。出演者の方が言いたかったことを曲解して編集するなど言語同断です。
しかし、それでもなぜその人の発言を編集するのかというと、やはりOA時間にはめ込まないといけないということが一番の理由ですが、編集することで、その方の言いたかったことが際立って逆にわかりやすくなることがあるからなのです。私は普段“いかに伝わりやすくなるか?”を目指して編集しています。
例えばある出演者があるトピックを10分喋ったとして、それを5分に編集する。時間は半分になっているのに、逆にその方の伝えたかったことが明確になる。そんなことが可能なわけです。
でもそのためにはその出演者の方の言いたかったことをちゃんと理解している必要があります。その方の伝えたかったメッセージを一本の“幹”として、そこにつながる言葉同士をまさに“枝葉”のように付け足して編集していく。すると全体でその方のメッセージという“木”になるのです。
しかし問題はそういう風に全てのテレビ制作者が編集するとは限らないことです。制作者によっては、一つ一つの言葉言葉の強さ(おもしろさ)だけを見て、そこを切り貼りして編集する人も多いです。そうして出来上がった番組は、その方のおもしろい言葉でいっぱいに見えますが、結局何を言いたかったのかの“幹”が全く見えない番組になっていることが多いのです。
多分、今のテレビはそう編集されてる番組が多くて、あえてそんな制作者を擁護すれば、出演した方のメッセージを曲解しているわけではなく、おもしろいとこだけ切り抜く“おもしろ編集”してるだけなんじゃないかと思います。 なのでそんな風に作られた番組を見ると、視聴者は「なんかおもしろいこと言う変わり者だなあ!」とは感じることはあるでしょうが、当の出演者本人は「自分の言葉尻だけ切り取られて、自分の言いたかったこと1ミリも伝わっていない」と感じてしまうのです。
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