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新元号「令和」の元ネタが中国でも「盗用」には当たらない理由

新元号が「令和」になることが発表されて10日ほど経過しました。出典は日本の万葉集と発表されましたが、実はさらにその元ネタが中国古典にあることにSNSなどでは賛否両論でした。無料メルマガ『古代史探求レポート』では、この中国古典の内容と、万葉集に収められている歌を綴った当時の人々の思いを、詳しい歴史的背景とともに紹介。さらに、実は「令和」は厳しい始まりという意味である、と解説されています。

いまや元号使用は日本独自の文化に

新しい元号が「令和」に決まりました。

元号の存続には様々な意見があるようですし、合理性から言えば西暦に統一して他の表現を使わないことが最も便利なのでしょうが、文化や精神世界というのは合理性だけで決めてしまって良いものではありません。現在は、本家本元の中国さえ元号は使わなくなりました。日本だけしか使われていないようですが、それだけに独自の文化として守って行ってもらいたいと願います。

新しい時代を再定義して始めるというは、非常に良い習慣だと思います。人々が期待を膨らませるとともに、古い慣習にとらわれずに新しい制度や考え方を取り込むための一つの契機となるからです。こういう時代の区切りというのは大切なことだと思います。この制度は是非とも廃止せず、続けて行ってもらいたいと思います。

元号の制定には、「国民の理想としてふさわしいよい意味を持つ」「漢字2文字である」「書きやすい」「読みやすい」「これまでに元号として用いられたものではない」「俗用されているものではないという条件があるようです。国民の理想としてふさわしいよい意味を持つというのは、漢字の各文字がそうである必要があるということでしょうか。2つの漢字の組み合わせで、俗用されていないとすると、新たな造語になりますから、国民の理想としてふさわしいよい意味を持つというのは判断のしようがないようにも思います。

新元号「令話」=管理社会の標語のよう

安倍総理は談話の中で、「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定致しました」と言われていました。SMAPの「世界に一つだけの花の様なコメントに少し驚いてしまいました。現代という時代を見据えて、日本が進むべき方向への指針となるような言葉であって欲しかったとも感じました。

「令和」を、そのまま読むと命令や法令を遵守し、調和の社会を壊さないようにという、管理社会の標語のような言葉に感じてしまいます。命令の令ではなく、令嬢の令であり、調和の和ではなく、平和の和という意味だそうです。実際は、万葉集の中にある梅花三十二首の序文から令月の「令」と、風和ぐの「和」を取られたとのことです。安倍総理は、談話の冒頭に「令和には人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められております」と言われていました。

そういう意味を込めたと捉えるのは安倍総理だけなのではないかとも思いますが、今回は今少し、万葉集の中の世界、言葉の元になった「梅花の宴」について考察して見たいと思います。

出典は万葉集だが、その元ネタは中国との指摘

「令和」の考案者は、中西進先生であると言われています。正式に発表されたのかどうかはわかりませんが、万葉集であるのなら中西先生で間違いないだろうとも思います。今回、官邸は典籍を国書とすることにこだわったとも言います。これも安倍総理のお考えかとも思いますが、「令和」が純粋な国書であると言い切っていいかというと、実は少し疑問符がつくのです。

この令和の2文字は、太宰府の長官である太宰帥(だざいのそち)であった大伴旅人が開いた梅花の宴で読まれた歌会作品の序文から選ばれました。

この序文では、次のようなことも書かれています。「梅は鏡の前のおしろいの粉のような色に花開き、蘭は匂い袋のように香っている」梅が満開で、蘭の香りが満ち、「生まれたばかりの蝶が舞」という素晴らしい庭園、そこで、「天空を屋根にし、大地を敷物としてくつろぎ、膝を寄せ合って酒杯を飛ばす」という宴を開いているのです。歌を愛する仲間達が「一堂に会しては言葉も忘れ、外の大気のなかで心をくつろがせ、皆が気楽に振る舞い愉快になり満ち足りた思いに浸っている」と書かれています。

実は、この序の文章は王義之(おうぎし)の書いた蘭亭集序を真似て書かれたものなのです。これは私が決めつけて言っている話ではなく、中西先生もそう言われていますし、契沖も「万葉代匠記」の中で指摘しています。王義之は、中国が晋の時代の政治家であり、書家でした。まさしく、大伴旅人と同じような立場の有名な人物です。現代では、書のお手本としてその名前が知られています。ちなみに、契沖は江戸時代の真言宗の僧侶ですが、万葉集を研究した学者でもあります。

梅花の宴の方は、「初春令月、気淑風和」ですが、蘭亭集の序では「暮春之初、(中略)、天朗気清、恵風和暢」と記されています。実は、冒頭で時間を書き場所を書くという書式が一致しているのですが、それが問題ではなく、内容が同じであると指摘されているのです。先程の解説文の最後に当たる「忘言一室之裏」に対して、原文は「悟言一室之内」ですし、「快然自足」という言葉はどちらにも存在しています。

漢籍を模範にしただけで、盗用にはあたらない

「令」は入っていないと、言われるかもしれません。確かにその通りですし、私は、漢籍を模範としていることを悪いことだとは全く考えません。どこかの学者がやる、論文の盗用とは全く次元の違う話です。当時の大伴旅人は、この「蘭亭集序に記載された気持ちと全く同じ気持ちを感じ、だからこそ、それを真似た宴を持って和歌を愛する人々といっ時を楽しもうとしたのです。序文まで真似て行った、宴であったことを先ずは知っていただきたいと考えてのことなのです。

参加しているメンバーをみると、太宰帥の下に置かれた弐(すけ)、監(じょう)、典(さかん)の高級官僚達、その下の実務責任者の判事、薬師、神司、令、陰陽師(うらのし)、算師、各律令国の責任者達、当時、筑前守であった山上憶良、豊後守の大伴氏(首麻呂か?)、筑後守の葛井大成、壱岐守の板氏、トップが来れずに代役として来たのか、大隅目や、対馬目、薩摩目が参加しています。

国司には、四等官として、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の官吏が置かれました。出席が多い目(さかん)の役職は記録や文書の草案作成でした。書記に当たる役職だと思いますが、この役職にはやはり文才のある人々が取り立てられていたようです。

また、場所が太宰府で行われたせいなのか、筑前国だけは守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)が全て参加しています。もしかすると、歌人である山上憶良の影響で、筑前国では彼ら役人達も歌人が多く登用されていたのかもしれません。集まって歌会がなんども開かれていたのかもしれないと想像してしまいます。実際、筑前歌壇と呼ばれる世界を作り上げていたのです。

これだけ、各地の責任者達が集まっているのですから、太宰帥の管轄地域の行政上の会合があり、その後引き続き催された宴席であったのかもしれません。私は、大伴旅人が太宰府に赴任して来た直後の就任の挨拶があり、そのために九州から代表が集まることになり、その後の就任の祝いとして開いたのがこの梅花の宴であったのではないかと思うのです。

「梅花の宴」は辺境の地で望郷の思いを歌う宴だった?

大切なのは、都で重役について還暦まで人生を送りながら、新たな赴任先は、高官であるとしても都から遠い九州の地であったということです。いわゆる、左遷であることは間違いないのです。大伴旅人の胸には、「私がそんなに邪魔なのか」という憤りもあったのかもしれません。
中西先生は、中国の楽府詩の題材の一つである「梅花落」を真似ようとして梅花の宴を催したのではないかと言われています。楽府は、詩歌を管理する役所です。そこが、歌会の題材も管理提供していたのです。「梅花落」とは辺境の望郷詩なのだそうです。「梅花落。春和の候、軍士物に感じて帰らんことを懐ふ。故に持って歌を為す。」この軍士こそが大伴旅人の心境なのだということのようです。都から遠く、九州の辺境の地で望郷の思いを歌う宴を開いたのです。

侵攻と圧政の中での九州赴任、大伴旅人の心境は

太宰帥の管轄地域は、九州と周辺の島々で筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国、肥後国、日向国、大隅国、薩摩国、壱岐国、対馬国、そして、この当時は多禰国(種子島などの大隅諸島)でした。五畿七道の中では、西海道と呼ばれた地域になります。

彼のお父さんは、大伴安麻呂ですが、安麻呂もまた太宰帥でした。705年に赴任して、3年間この役職を勤め上げました。そして、大納言に出世したのです。この時、旅人も共に来ていたとは思えませんが、この役職につかされる布石は存在していたようです。

この少し前の702年に、大和政権は九州の南部に侵攻します。そして、薩摩国(当初は唱更国(はやひと国)と言いました。)を築いて兵を送り込み、熊襲と呼ばれて最後まで残っていた抵抗勢力を征圧したのです。それから、10年たった713年には大隅国を設立します。ここでは、同化政策を取り、豊前国から5000人もの人を移住させ、指導させることで新たな土地制度の下で租税を徴収しようとしたのです。しかし、もともとここに住んでいた隼人と呼ばれた人々にすれば、この大和政権のやり方にはどんどん不満が貯まるばかりでした。

720年には、大隅守の殺害事件が発生、そして、非常に大きな反乱が勃発したのです。豊前国の人間を移住させてまで、行おうとしたのは稲作であったのですが、これがシラス台地の上ではうまくいかなかったのです。

大隅国の国司が反乱軍により討たれたと知らせを受けた大和政権は、大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命して隼人の討伐に向かわせます。これが大伴旅人が最初に任じられた九州の地での役職になりました。大伴旅人のヤマト軍は1万人です。5月に軍営を張ったヤマト軍は、七箇所の城に立てこもった隼人達を次々と落とし、6月の中旬には2城を残すだけとなりました。

しかし、時代は大きく動きます。当時最大の権力者であった右大臣の藤原不比等が亡くなってしまうのです。これにより、大伴旅人は直ぐに京に戻るように命じられます。2城を残し、ヤマト軍を副将軍に託して8月には都に戻ってしまいます。その後、隼人が集結した2城は、難攻不落で攻めきれず、翌年の7月になり、ようやく1年半に渡った戦いにヤマト軍は勝利を収めたのです。

この7年後に大伴旅人は太宰帥に任命され再び九州の地に戻ることになるのです。決して、旅人が反乱民族の制圧に長けていたからということではなかったようです。彼は、太宰帥としての赴任時代に隼人征伐に向かうということはありませんでした。九州では、酒に浸り、歌を読んで優雅に暮らしていたようです。辺境の地での隠遁生活を楽しむかのような生き方を送っていたのです。

梅花の宴に、大隅守も、薩摩守も参加していなかったのは、未だその地が不穏な気配があり、そこを抜けて国司が宴に参加できるような状況ではなかったのかもしれません。同じ九州の地でありながら、北側では、梅の花見をしながら歌を詠み宴に興じ、南側では、未だまつろわぬ人々を抑え込むのに必死であったというのが、当時の大伴旅人に辺境の地と感じさせた九州の実情であったのだと思います。

大伴旅人にとっては、隼人の乱の鎮圧の時も、政変により任期途中で京に戻るということになりましたが、太宰帥でもまた政変により任期途中での帰京になります。長屋王の変が生じ、都は揺れ動きます。そして、730年の終わりには、大納言となり帰京することになってしまいます。

わずか、3年足らずの失意の中での赴任となりましたが、また本当の春がやってきたのです。しかし、この間には、一緒に九州の地にやって来た妻の郎女を失うことになりました。決して良い思い出の地ではなかったのだろうと思います。

大伴旅人はこの宴で、次のような歌を詠んでいます。「我が園に 梅の花散るひさかたの 天より雪の流れくるかも」梅の花の舞い散る様子を、空から雪が降ってくるようだと歌った歌です。雪には見えないように思いますが、ひらひらと花びらを散らす様子、「梅落」を歌っているのです。九州では滅多に雪は降りません。雪のように感じられたのは、彼の心が冷えていた表れであったのではないでしょうか。

当時、筑前守であった山上憶良は、「春されば まづ咲く宿の梅の花 独り見つつや春日暮らさむ」という歌を詠い応えています。傷心した大伴旅人の気持ちが痛いほどわかっていたからこそ、憶良は、「梅の花をみて春の日を過ごすことになるのかな」という大伴旅人の詠嘆を歌っているのです。

「令」は、非常に厳しい時代が始まるという意味

万葉集に記された梅花の宴の序文の「令月」とは、新しいことを行う月であるけど、非常に厳しい始まりであるという意味の」なのです。置かれた立場に、吹きかける風が和らいでいること、これは山上憶良達の歌仲間の存在なのかもしれません。せめてもの救いであるという事を言っているようです。
「令和」は決して陽気に浮かれて活躍していきましょうという時代を意味しているのではないのです。一人一人が大きな花を咲かせることを歌っていたのでもないのです。ただ、厳しい中でも友との安らぎがあれば乗り切ることができると歌っていたのです。

だからこそ、新しい時代「令和」には、身を引き締めて臨まなければならないと考えるのです。そして、真の仲間を見つける時代にしたいと思うのです。

image by: shutterstock.com

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