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お茶を入れない「茶碗」、筆が入ってない「筆箱」の意外な共通点

児童、生徒たちが日常の筆記具として筆を使うことは激減しても、文房具としての「筆箱」はいまも誰もが学校へ持っていく物なのではないでしょうか。そして、学校に着いたら「下駄箱」から上履きを出し、履いてきた靴を入れる。そんなどこにでもある日常ですが、メルマガ『8人ばなし』の著者・山崎勝義さんは思います。なぜ、筆も下駄も使わないのに、「筆箱」、「下駄箱」の言葉は変わらないのか、と。そして、気づいた共通点から、実体とは乖離しながら使われ続けることになる次の言葉を予想します。

茶碗に茶が入っていないこと

実体と名称にズレがあっても猶そのまま違和感なく通用している名詞の例である。具体的に説明すれば「茶碗」は飯を装う器である。茶を入れるのはお茶漬けの時くらいである。その器が茶専用であることを明示するには「湯呑み」あるいは「湯呑み茶碗」といったように回りくどい言い方をするしかない。

また今では「筆箱」に筆が入っていることはないし「下駄箱」に下駄が収まっていることも滅多にない。「歯磨き粉」に関しては粉状の物を実際に見た人の方が遙かに少ない。自分も記憶する限りにおいてはチューブに入ったペースト状の物しか使ったことがない。こういった実際にもかかわらず何故違和感がないのであろうか。

ここで改めて上記名詞群を見直してみる。すると、それらにいくつかの共通点があることが分かるのである。まず基本的にはどれも毎日使う物であるということが挙げられる。そのために言い改める、あるいは言い換える機会を終に与えられず、昨日の記憶のままにそれまでの呼称を今日も続けることとなるのである。これが1年に1度使うかどうかの物であったなら事情は違ってきたのかもしれない。

さらにこれらの名詞が、2つ(あるいはそれ以上)の名詞が複合することでできているというところも興味深い共通点である。

というように分解することができるのである。

これはどういうことかと言うと、二つの名詞が表す概念のうちどちらか一方(例えば「茶」「筆」「下駄」「粉」)が実体とは変わってしまっても、残りの一方(例えば「碗」「箱」「歯磨き」)が依然としてその概念表現機能を果たし続けるために名詞全体としての意味が損なわれない、ということである。

簡単に言うと、茶を入れようが飯を入れようが「碗」としての機能は変わらない。変わらないから使い方の一つのあり様として受け容れられるのである。それは「箱」に筆を入れようがペンを入れようが文房具には変わりなく、下駄を入れようが靴を入れようが履物の収納家具には変わりないのと同じである。

また「歯磨き」をするに当たって、その歯磨剤が粉状であってもペースト状であっても歯を磨くという行為自体は変わらない。これも変わらないから受け容れられるのである。
さらに「茶碗」「筆箱」「下駄箱」に関して言えば、入れられる物(茶・筆・下駄)と入れる物(碗・箱)という関係が成り立つことも興味深い。

というのも、近年似たような言語現象が起こったからである。例えば数十年前、音楽メディアはレコードからCDに変わった。にもかかわらず依然としてそれを制作する会社は「レコード会社」と呼ばれている。加えてそれを販売する店を「レコード店(屋)」と言うことも今では少数派かもしれないがあるにはある。

また今世紀に入って映像メディアはビデオからDVD、さらにはBDへと変わったが、それを貸し出す店は変わらず「レンタルビデオ店」のままである。

上記2例においても、取り扱われる物(レコード・ビデオ)と取り扱うもの(会社・店)という関係を見出すことができる。おそらく「茶碗」等と同じ理屈であろう。

このような言語現象は、その名詞が表す物に対する我々の親疎の気持ちを表しているようでどこか面白い。
そこで今、敢えて身近な物で予想してみる。将来あらゆる書籍が電子化された場合、本がほとんど並んでいない「本棚」が出て来るのではないだろうか。

image by: Shutterstock.com

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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