ここで、少し違う角度から、「心に寄り添う」こと、心の世界をわかりやすくお話させていただきたいと思います。先生たちが、子ども達と心を通わせ、「心に寄り添う」ために、どのような点に心がけたら良いのか、スクールソーシャルワーカーの立場から、先生たちへの参考になると思われる指針を示したいと思います。
では、「いじめられて、つらかったね」、「嫌な思いしたね」、このように共感すれば解決になるのでしょうか。確かに、「共感、傾聴」は癒し効果があります。心身の弱った方、特に高齢者へのケアでは最も重要な柱です。しかし、いじめ被害をうけた子どもの話を丁寧に聞くことは大事ですが、その後、何も実行しないのでは「聞いてくれたけれど、何も変わらなかった」と、希望は失望に変わってしまうことでしょう。
そのほかに、スクールカウンセラーが教えるように、リフレーミングしたら「心に寄り添う」ことになるのでしょうか。リフレーミングとは、
- 消極的だ → 思慮深い
- せっかちだ → 行動的だ
- 元気がない → 控え目だ
- のろまだ → 慎重だ
- 意思が弱い → 協調性がある
- 飽きっぽい → 流行に敏感だ
- 暗い → 落ちついている
というように、物事の見方を変えてみることです。見方を変えれば、景色が変わってきます。人間関係で悩んだりするときは、相手に対する見方を変えることで、自分の心も軽くなることもあります。初期段階での、いじめ、不登校の防止、自殺予防には効果があるかもしれません。しかし、状況はそのままで、被害者本人だけに心のありかたの変化を求めるのはいけません。また、同じことを全員がすると、つまり、いじめを「いじめではない」と見方を変えてしまったら、加害者の行為を増長させるだけ…という悲劇も生じる恐れがあります。
「表面的でない『心に寄り添うこと』」って何でしょうか。暑い夏の夜の、あるエピソードを紹介したいと思います。もう30年も前のある医療少年院でのお話です。
医療少年院には、教科を教える先生、法務教官、医療・心理の専門家の方々が働いています。少年たちの情報は日々しっかりと共有されています。
「今朝は、ほとんど寝ていないので頭がボーっとしています」とベテランの先生が話し始めました。実は昨夜、年少少年のA君が叫び声をあげたので、ひと晩中、抱きしめていたそうです。
「たすけて。たすけて。僕の胸に包丁が刺さっている。先生たすけて」
A君が泣きじゃくっています。就寝中の叫び声に、宿直の先生たちが飛んでいきました。もちろん包丁が刺さっているというのは現実ではありません。また、A君は、夢を見てうなされたのでもありませんでした。幻覚を見ているのです。A君は精神疾患を持ち、かつ事件を起こしたので医療少年院にいたのです。
ベテランの先生は、決して頭からA君を否定せず、落ち着かせることに専念しました。今のA君にとって、包丁が胸に刺さっているという非現実的な幻覚は、いままさにある現実なのですから。
「A、先生がとってやったぞ。どうだ、とれたか」
「とれません。まだ、あります。痛いです」
「この先生にも手伝ってもらうぞ。うんとこしょ。どっこいしょ」
先生たちは真剣に汗を流して、A君の胸に刺さった包丁をとる試みをやりました。肩を抱き、手足をさすって落ち着かせながら。なんだか、子ども向けの童話の「大きなカブ」のような風景です。こっけいかもしれません。しかし、そこには、何とか子どもの苦しみを取り除きたい、幻覚から子どもを救いたい、という強い熱意や行動力がありました(もちろん、医師が判断して投薬することもあります)。
「とれました」
「そうか、良かった。良かった」
先生たちも汗だくだくになりました。実は、A君は加害者ではありますが、同時に被害者でもありました。保護者から、有り得ないような児童虐待を受けて育ったのです。子どもの生育歴、育った環境、保護者から受けてきた様々な虐待を知ったうえで、子どもの人生に対する深い洞察力が医療少年院に勤務する先生たちには必要です。また、深い心の傷を負った子どもには、信頼関係のある大人の深い愛情が必要です。
先生たちには、ひとりの人間としての大きな愛情と包容力がありました。毎日、顔を合わせる少年院の先生たちは、親代わりであり、子どもと信頼関係という絆で結ばれた、かけがいのない存在なのです。