スポーツも五輪も所詮は「国の支配」。池田教授が繙く運動の歴史

 

スポーツの歴史

スポーツや運動は、個人の楽しみのためにするという側面はもちろん今でもあるのだが、近代国家成立以降、前回記したオリンピック競技にみられるような国威発揚をはじめとして、身心を鍛える、自分の属する集団に忠誠を誓う、といった時の政治権力に都合がいい目的の手段とみなされて、国家主義や全体主義と強い親和性を持つようになった。

過度な運動は健康を損なうことの方が多く、特に、無酸素運動は活性酸素を増やし、寿命を縮めることが分かっている。ミトコンドリアでATPを作る際に不可避的に発生する活性酸素により、細胞内のDNAが傷ついて、がんをはじめとする病気になり易いのだ。大相撲の横綱や短距離走のトップアスリートの平均寿命が短いのは、息を止めて激しい運動をするせいである。スポーツをしたからと言って、健康になる訳でも、寿命が延びるわけでもない。

それにもかかわらず、運動やスポーツがとても良いことのように宣伝されているのは、これらを通して国民の体や精神をコントロールしたいとの権力の欲望のせいである。第二次大戦前の日本、ドイツ、イタリアなどでは、国民の生活や労働に対する不満を国威発揚によって解消させ、国家への帰属意識を高める政策の一環として、体育やスポーツが奨励された。ドイツではこの運動はKdF(クラフト・ドルヒ・フロイデ)、イタリアではOND(オペラ・ナチオナレ・ドーポラヴォーロ)と呼ばれたが、いずれの運動でも、国民をファッシズム体制下で管理する一環として、体育・スポーツがとりわけ重要視されたのである。

日本では1938年に厚生省が誕生したが、その主要な目的は国民体力の国家管理であり、厚生省の中では体力局が最も重要な部局であった。ここら辺りの事情は、藤野豊『強制された健康─日本ファッシズム下の生命と身体』(吉川弘文館)に詳しい。藤野によれば、1938年発行の厚生省編『厚生行政要覧』には「国民体力の向上は国防上・産業上・経済上・文化上の喫緊の問題であるから、厚生省のすべての機能が体力向上のために動員されるという認識が示されている」(前掲書23頁)と書かれているという。

国家に忠誠を誓う優秀な兵隊を育てたいという、時の権力の目的のためのスポーツというわけである。それが故に、体を鍛える以上に精神を鍛えることが、スポーツの目的として重要視されたのである。「精神を鍛える」ということは「時の権力の言いなりになる」ということと同義である。それに多少は関連して、スポーツは健全娯楽とみなされて、国民が余暇を不健全な娯楽に費やすのを防ぐのに役立てようという意図も大いにあった。

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