スポーツも五輪も所詮は「国の支配」。池田教授が繙く運動の歴史

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いよいよ迫ってきた東京五輪。準備が進むとともに、少しずつ盛り上がりを見せ始めています。私たち日本人は「健全な精神は健全な肉体に宿る」との考えから、とにかくスポーツを頑張ることで精神面での充実が得られる、と捉えがちです。しかし、フジテレビ系「ホンマでっか!?TV」のコメンテーターとしてお馴染みの池田教授は自身のメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』の中で、国旗を背負っての競技スポーツのあり方を根底から探った結果、必ずしも手放しで喜べない旨を指摘しています。

スポーツは危険・取扱注意ということについて

子供のころからチームプレイが必要なスポーツは苦手だった。野球やサッカーやバスケットボールやバレーボールは苦手というより嫌いだった。友達とこういったスポーツに興じた経験はほとんどない。体育の授業で無理やりさせられることはあったけれど、やる気がないこと甚だしく、当然のことながら、体育の教師からは睨まれてばかりいた。

しかし、どんなスポーツでも嫌いと言うわけではなく、徒競走や、相撲や柔道といった格闘技は、結構楽しかった覚えがある。小学校の時は学年で二番目に足が速く、6年生の時は、学校対抗リレーの選手で、秋の運動会シーズンになると、近隣の小学校に走りに行き、優勝カップをいくつももらってきた。現在の私よりも3倍くらい速かったのではないかしら。

授業時間外で、友達と一番よく遊んだスポーツは相撲である。相撲は相当強かったと思う。左差しで右からの上手投げが得意だった。徒競走も相撲もチームプレイではないところが私の性に合ったのだろう。長じてはスキーに凝ったのも、同じ理由からであると思う。

それではなぜ、チームプレイが嫌いだったのか。チームの中に断トツに下手くそなやつがいると、後のチームメイトがそこそこ上手でも勝てないことが多く、一人の失敗の責任を全員で負わざるを得ないというあり方が、どうにも嫌だったのである。「連帯責任」「みんなで頑張る」「失敗した仲間を庇う」といったチームプレイにつきものの心性がいたたまれなかったのだ。バレーボールなどで、誰かが失敗して周りの仲間が発する「ドンマイ」という言葉を聞くと、虫唾が走ったのである(今でもそう)。それに対して、個人競技は勝っても負けても自分だけの責任であり、他人の失敗を忖度する必要もない。

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