同じような思想的な整理は権力者についても必要です。法律に守られているという錯覚・幻想を抱いている点では、ときの権力者にも日本の法律・制度をなめきっている人々と似たような部分があります。普通の国民なら「お縄頂戴」になるようなことをしでかしても、それをもみ消して、それで済むと思ってはいないでしょうか。権力者を守る警察にも、そのような過信がないとは言えないと思います。
繰り返しますが、そのような傲慢さが通用するのは、肝っ玉の小さな私のような小市民に対してだけだということを忘れてはなりません。怒りに燃えた国民、過激な使命感を抱いた活動家にとっては、ときの権力者や警察上層部を物理的に屠るのに、それほどの困難は伴わないのです。ここでは具体的な方法を述べることは控えますが、それくらい日本の国家権力は隙だらけでもあります。
個人の怒りのレベルを超えて、国民の怒りが沸点に達したとき、それを背景とする二・二六事件のような軍部の反乱や、ロシア、フランスなどの革命が引き起こされたことは、特に権力側が学習しておかなければならない歴史的な教訓なのです。
法律さえ制定すれば事たれりと安心してしまう日本は、尖閣諸島をはじめとする国境の防衛どころか、これまでの発想のままではオリンピック・パラリンピックのテロ対策さえ十分にできていないことを自覚し、国際水準の能力を備えることを急がなければなりません。
新年に当たり、法治国家という言葉とは裏腹な日本、形式に流れている日本、張り子のトラでしかない日本の現状について、述べさせていただきました。本年もよろしくご愛読のほど、お願い申し上げます。(小川和久)
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