強制力のない緊急事態宣言について、前回「悪循環を避けるにはロックダウンしかない」と指摘した危機管理の専門家で軍事アナリストの小川和久さん。主宰するメルマガ『NEWSを疑え!』で今回、阪神大震災を例に、平時型官僚の発想と有事型とも言える軍事組織の発想が真逆であると解説。戦争や感染症への対応における法律の不備については、必要な行動をとるなかで問題提起し解決すればよいと主張しています。
こんなに違う有事型と平時型
4月20日号の編集後記で、元内閣官房副長官の石原信雄さんの読売新聞へのコメントについて、「それは違います」と書いておきました。石原さんは日本の官僚としてはずば抜けた秀才です。第1次安倍政権では、日本版NSC(国家安全保障会議)を創設するための「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」の座長を務め、私も議員として色々と教えていただきました。その石原さんでも、今回のコロナの問題では机上の空論のようなコメントになってしまっています。
実を言えば、これは石原さんだけの問題ではなく、日本の官僚と官僚に依存している政治家に蔓延している病気なのです。今回は、それについて整理したいと思います。石原さんは4月19日付の読売新聞のインタビューの冒頭、次のように述べています。
「緊急事態宣言は、広範囲にわたって市民生活に影響を及ぼしている。住民との窓口になるのは地方自治体で、首相や閣僚は全国知事会などと頻繁に意見交換するべきだ。1995年の阪神大震災で、私は官房副長官だったが、被災地の正確な情報の把握に手間取った。非常時では政府が地域の状況を把握することが一番大事だ。」
この部分に、日本の行政が克服しなければならない問題点が現れているのです。
石原さんは「1995年の阪神大震災で、私は官房副長官だったが、被災地の正確な情報の把握に手間取った。非常時では政府が地域の状況を把握することが一番大事だ」と述べています。当時のことをもっと具体的に言いますと、石原さんを事務方の頂点とする首相官邸は、「神戸から情報が上がってこない」と嘆き節を繰り返していたのです。
それを日本の世論は「革新系の村山政権だったから危機管理ができなかった」と批判していましたが、それは違います。小沢一郎さんの政権であっても、事務方の発想が「情報が上がってこない」というものでは、同じような対応しかできなかったのです。
阪神・淡路大震災の発生を受けた石原さんは、首相官邸に向かう東急田園都市線の車内で、記者団に「これは災害対策基本法だ」と述べています。これを見るとわかるように、石原さんに代表される日本の官僚は最初に「どの法律の問題なのか。それを適用できるのか」が頭に浮かぶのです。そして、神戸の情報についても「上がってくるのを待つ」という受け身の発想しかないのです。
これでは大規模災害に代表される緊急事態に対応できるわけがありません。むろん、武力攻撃を伴う戦争やコロナのような感染症には、ただただ手をこまねいているのと同じことになってしまいます。
それが軍事組織の発想ならどうなるでしょう。上級指揮官の頭に浮かぶのは法律ではありません。なにをしなければならないのか、どうすれば国民を守ることができるか、です。そして、それに基づいて行動します。
神戸の情報についても、偵察のために部隊を投入します。行政も警察も消防も被災者である神戸から、待っていても情報が上がってくるはずはないのです。法律制度の不備については、必要な行動をとるなかで問題提起をしていく形になります。日本の官僚機構とはまったく逆の発想になること、平時型の発想の官僚機構では通用しないことがおわかりでしょう。
もっとも、平時の軍事組織の上級指揮官も官僚化してしまい、大規模災害はともかく、武力を伴う戦争に対応できるとは言えないことも知っておくべきでしょう。
例えば第2次世界大戦を例にとると、米国陸軍のトップであったマーシャル参謀総長は昇進が遅れて一介の陸軍少将でしかなかったアイゼンハワーを起用し、欧州戦線の勝利を手にしました。フランスでも、ドイツに押しまくられていた劣勢のなかで、准将の階級で低迷していたド・ゴールが頭角を現し、連合国の一員として戦勝国に名を連ねたのです。
アイゼンハワーもド・ゴールも、軍事官僚が幅をきかせる平時なら少将や准将で退役したことでしょう。有事だったからこそ、そして有事型の人間しか通用しない緊急事態だったから、手腕を発揮できたのです。
今回のコロナでも、安倍首相を頂点とする日本の政治と行政が、自ら平時型と有事型の違いを理解し、頭の中身を有事型に切り替えて初めて、国難を乗り越えることができると思います。(小川和久)
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