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靖国問題は日本をどう分断したか?リベラル派が無視するA級戦犯の真実

我々日本人にとって特別な日である、8月15日。しかし、歴史を冷静に振り返るべきこの日に、九段下の靖国神社では毎年のように騒動が起きているのも事実です。何がこのような事態を招いてしまったのでしょうか。米国在住作家の冷泉彰彦さんは今回、自身のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』で、静寂であるべき一日を汚すきっかけを作った人物の名を上げるとともに、日本人が理解すべき、先の大戦を巡る「黙契」というものについて詳しく記しています。

8月15日の「静寂」を壊したのは何か?

今年の8月中旬は、いつもの年にも増して重苦しい雰囲気を感じます。アメリカから見ているので、臨場感は分からないのですが、故郷への帰省や、大家族の再集合などが「遠慮」される中で、「お盆」の重苦しさが増している、そんなイメージを持って見ています。

そもそもこの8月の中旬というのは、日本にとっては重苦しい時期なのです。国中が、死の影に覆われているからです。京都の五山ばかりが有名ですが、全国では、お盆の迎え火や送り火が焚かれます。地域によっては、盆提灯をかなり力を入れて選ぶところもありますし、町のはずれで藁束を燃やす迎え火、送り火は質素なものでも厳粛です。

75年前に遡ります。ナチスドイツが崩壊し、連合国による占領がはじまっていたベルリン郊外にあるポツダム離宮で行われた首脳会談により、日本への最終的な降伏勧告の「宣言」が出されました。これが1945年の7月26日で、この日以降8月15日に至る一日一日は、表面には御前会議、2回にわたる原爆攻撃、そしてソ連参戦という激しい戦争のドラマを生みましたが、裏ではいわゆる終戦工作として歴史の表舞台には出てこない暗闘や知謀が錯綜していったのだと思います。

その結果が8月15日の宣言受諾ということになりました。

常識的には、日本列島の制空権を喪失し、米機による全土への自由な空爆を許す事になった時点で、この戦争はゲームオーバーのはずでした。にもかかわらず「国体護持」を建前に、「国のかたち」を失う恐怖によって自身の死の恐怖を「ごまかす」しかなかった為政者たちは、一億玉砕というそれ自体が国家と国民への反逆にほかならない心理に束縛され、同調圧力の奴隷として無駄な時間を空費していたのでした。

その結果として、トルーマンに原爆使用の時間と口実を与えてしまったこと、そして「まんま」とスターリンによる侵攻を許したことを含めて、宣言の受諾が遅れたことは非としなくてはなりません。これは国家、国民への裏切りであり、できるだけ速やかに国家と国民の名において断罪がされなくてはなりません。

けれども、その結果として奇しくも8月15日「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の日が敗戦の日となった、このことは75年を経た現在に至るまで、動かしがたい事実となりました。昔から日本人が死者へと思いを寄せることになっていたこの日が、戦争の膨大な死者を追悼する日が永遠に重なってゆくことになったのです。

一説によれば、宣言受諾の最終的な判断のプロセスで、「盂蘭盆会と終戦が重なる」ということに、閣僚ないし、昭和天皇ご自身が特別な感慨をもって決定へと進んだという話も聞いたことがあります。

ですが、近年の8月15日は、その原点が大きく崩れているように思います。

静かに追悼をしているのは、天皇皇后臨席の追悼式ぐらいであり、その他については、静寂ではなく一種の騒々しさが絶えないからです。

「靖国」をめぐる不毛な争い

そこには、靖国の問題があります。靖国という場所は、私自身、先祖の一人がその前身となる招魂社のそのまたルーツと言うべき、戊辰戦争戦没者に対する神式の慰霊を司ったこともあり、特別な思いを持っています。何よりも佐幕派が排除された社ということへの違和感があるからです。

また、現在まで続く戦没者遺族における「亡き人の魂は靖国にいる」というグループと、「靖国があったから大切な人は殺された」というグループが、全く和解ができず、また和解をするべきだという発想すらないままに、対立を続けているという騒々しさにも強い違和感をおぼえます。

身内に戦没者がいるという遺族の思いは、痛切であり、強烈な感情です。そうではあるのですが、だからこそ「靖国が憎い」という感情と、「靖国は死者と再会できる場所」という感情は、突き詰めていけば重なる部分を見出すことはできるはずだからです。それを妨害しているのは、与野党の政治的な対立エネルギーであり、それは思想などという立派なものではありません。

靖国神社の「8月15日」を汚した男たちの実名

もう一つ、仮に「戦没者の魂が靖国にいる」という信仰においては、その魂と再会できる日は、春と秋の例大祭のはずです。また、靖国といえども、日本の神社である以上は、仏教との習合の痕跡を残しており、盂蘭盆会の行事もちゃんとあります。ですが、こちらも新暦に合わせて7月に「みたままつり」として盛大に行われています。

ですから、靖国という信仰を持つ人にとっては、8月15日の宗教的な意味合いは薄いのです。にもかかわらず、以前から政治家が遺族会の票欲しさに参拝を行う、ついでに反対派にケンカを売って保守票に媚びるという悪弊が続いていました。

例えば、1975年の三木武夫総理の現職総理参拝強行という事件がありますが、これは「田中金脈」の後に登場した「クリーン政権」として、都市の世論には好感を持たれつつも、自民党の票田である保守票は押さえられない中での、極めて政治的な邪念100%の行動でした。そこに、1978年における松平永芳宮司(当時)によるA級戦犯合祀の強行という問題が重なってメチャクチャになっているわけです。

松平(故人)は、一種の確信犯のようですが、これによって8月15日の「騒がしさ」がある臨界点を超えて行くことになったと思います。いわゆるA級戦犯については、彼らには「自分は名誉も生命も剥奪されるが、それによって日本が平和になればいい」という沈黙の自己犠牲があり、そのことを国として重く受け止めるという「黙契」があったという考え方ができますが、その「黙契」も壊されてしまいました。

「不名誉を永遠に全て背負う」暗黙の契約

平たく言えば、この「黙契」というのは、不名誉を永遠に全て背負う、従って後世の人間はその名誉回復をしてはならぬ、その代わりに後世の人間は日本の平和と繁栄のために粉骨砕身努力をする、そのような契約です。

この「黙契」というのは、証拠はありませんが、本人たちと昭和天皇との「黙契」であり、それを直接の遺族たちは厳粛に同意し、同じように沈黙を守ったというのが私の理解です。当時の日本は独立を回復しておらず、従って枢軸国の国のかたちと、戦後の連合国(United Nations)入りした国のかたちの間の過渡期ではありましたが、1,500年以上にわたって綿々と続く日本史の連続性の中では、この「黙契」というのは国のかたちの奥底に秘められたと理解できます。

ちなみに、14名の全員が黙契を理解し、その当事者になったという理解はやや不正確で、特に松岡、白鳥などはそんな重みを受け止められる器ではなかったと思われますし、永野、小磯、平沼、梅津などもそうだと思います。東郷(茂徳)に関しては恐らく不本意ではないかと思われます。ですが、色々と問題はあるにしても、東條以下、刑死した7名については、特にこの「黙契」が本人にも家族にもあった、そしてそれは「黙契」であるがゆえに、一方の当事者である昭和天皇を含めて誰も何も書き残さなかったし、口外もしなかったと考えます。

東條に関しては、国策を南進論に誘導して亡国へ引っ張った責任はほぼ無限大であるわけですが、であるにしても、ソ連の和平仲介などという壊滅的な失策を重ねて自死した近衛などと比較すれば、少なくとも亡くなり方に関しては厳粛なものを感じます。勿論、逮捕前後の醜態など色々あった人ですが、末期の瞬間にはこの「黙契」を理解し、背負って歩んでいったのではないかと思います。

日本を平和国家として尊敬される国にした「黙契」

個人的になりますが、私の母方の家は、先ほど申し上げたように維新の際には、官軍の先鋒を務めた神官を祖先の一人としていますが、同時に一族の中には河合栄治郎、小野寺信もおります。河合は東條系の権力によって職を追われ、著書を発禁とされ、その義理の息子を南島に送られて殺されています。

小野寺については、対国民党和平策を潰された後には、駐在武官として赴任していたスウェーデンから必死の思いで打電したヤルタ協定問題の諜報を握りつぶされ(これは東條系と松岡系の双方がワルだと思いますが)ています。ですから、家系ということでは仇敵であるのですが、それでも、この「黙契」という問題に関して、東條を馬鹿にしたり、無視したりすることはできません。

例えば東條家でも孫世代の中には、この「黙契」を理解する能力がなく、したがって日本の国のかたちの深い部分を知ることもなく、祖父の「名誉回復」を声高に叫ぶような人間も出てきたわけです。ですが、それを少ない例外とすれば、この「黙契」というのは機能しており、その結果として、日本は連合国に入り、見事に軽武装の平和国家として最終的には国際社会から尊敬を受けるまでになったのだと思います。

神格化ではなく、事実を正しく理解せよ

平成という元号の終わりに当たって、上皇が「戦争のない治世」であったと胸を張ることができた、それもこれも、この「黙契」が機能したからです。保守派が、占領軍の延長である駐留米軍を「安い傭兵」として利用できたのも、左派が無自覚な「非戦国家を誇るというナショナリズム」を謳歌することができたのも、全てはこの「黙契」に関係するという考え方ができます。

刑死した7名を神格化したり、名誉回復することはしない、だが、その犠牲の事実、特に不名誉の全てを背負い、また永遠に背負いつつ去って行ったという事実については、理解できる人間は理解しなくてはならないのです。

三木に始まる政治家に加えて、その厳粛な重さを松平は決定的に破壊し、昭和天皇を悔恨から自由にならないまま去らせ、そして今、8月15日に「騒ぎ」を起こすことで、更に泥を塗っているのです。その結果として、静寂であるべき盂蘭盆会が、そして恐らくは昭和天皇が意識的に同じに重ねた終戦の日という、静寂であるべき一日が汚されているわけです。

image by: Shutterstock.com

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東京都生まれ。東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒。1993年より米国在住。メールマガジンJMM(村上龍編集長)に「FROM911、USAレポート」を寄稿。米国と日本を行き来する冷泉さんだからこその鋭い記事が人気のメルマガは第1~第4火曜日配信。

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