新型コロナウイルスの感染拡大で騒がれた1月頃から、スーパーやドラッグストアの店頭からトイレットペーパーが姿を消しました。国民の「不安」がこのような行動を引き起こしてしまったのですが、今後どんなに科学が進歩しても「不安」は私たちを支配し続けることでしょう。心理学者でメルマガ『富田隆のお気楽心理学』の著者である富田隆さんは、「不安は常に人類を悩まし続ける」ものであるとした上で、不安な気持ちを忘れて楽しく生きるためのコツを伝授してくれています。
「不安扇動社会」を生き抜くには?
「不安」と「恐怖」の違いは何でしょう?
ひとつは「対象の存在を認識しているか否か」の違いです。
高所恐怖、動物恐怖、対人恐怖、等々、人は様々な対象に怖れを抱きます。しかし、人は自分が「何を怖れているのか」その「対象」を認識している場合がほとんどです。
例外的に、「得体(えたい)の知れない恐怖」というような、対象がはっきりしない恐怖も存在しますが、その場合でも、何か正体不明の、漠然とした脅威というような、恐怖を引き起こす原因となる匿名性の「対象」は存在しているわけです。
対象がある以上、これと闘うこともできるし、それから逃げることもできます。
恐怖は、それを克服する対策を立案することができるわけです。
これに対して、不安には明確な対象の認識が欠けています。
不安はいつでも「漠然とした」不安なのです。はっきりした原因を特定することができませんから、対策も立てられない。
闘うにしても、逃げるにしても、何と闘えば良いのか分からない。何から逃げれば良いのか分からない。
恐怖も不安も、人々を行動に駆り立てる強力な「動機」として働くわけですが、恐怖により引き起こされた行動が目的志向的であるのに対して、不安により引き起こされた行動は「盲目的」です。
盲目的であるということは、そうした行動が不安を克服するための役に立たない無駄な行動であるということであり、多くの場合、さらに不安を煽るような結果を引き起こすということにつながりかねません。
買い占め
今回のいわゆる「コロナ騒動」でも「買い占め」と呼ばれる現象が起こりました。
正体の分からない未知のウイルスが蔓延したのですから、人々が「不安」を抱えるのは当然でした。不安により行動の動機が高まり、何かをせずにはいられない状態に陥った人々の内、ほんの何パーセントかがトイレットペーパーなどの買い占めに走ったのです。
ところが、最初に、この何パーセントかの人々が買い占めを行った結果、実際にスーパーやドラッグストアなどの店頭でトイレットペーパーが不足するという「現実」が生じました。
この現実が噂となって拡がり、さらに不安を煽られた何十パーセントかの人々が買い占めの第二波を構成し、店頭から完全にトイレットペーパーが消えてしまったのです。
不安により引き起こされた行動は「盲目的」であるため、不安の低減につながらず、さらに不安が煽られる結果となりました。
こうした行動の結果、それまでの、未知のコロナウイルスが蔓延するかもしれないという漠然とした不安に加えて、新たに物不足という不安材料が創り出されたわけです。
そして、不安による行動の特徴は、個人が普段から頻繁にやっているような行動が選ばれやすいということ。また、動機が盲目的で方向性を持たないことから、暗示を与えられることで誘導されやすいということです。
実際、現代の都市生活者における主要な行動のひとつが「購買行動」であるため、不安を抱えた人々がスーパーなどの店舗に殺到したわけです。
いわゆる「買い占め」の行動は、日頃、「お買い得」の格安商品をわれ先にと競って買い求める行動と同じ種類のものです。
不安は人を「習慣的な行動」へと駆り立てる。
これが無能なお役人なら、普段から何かを禁止したり制限したり、というような非生産的な仕事ばかりしていますから、店舗や劇場を閉鎖させたり、電車の終電を前倒しにしたりといったことを熱心にやろうとします。
財務省の官僚なら、経済の先行き不安に備えて「増税」をしようと企むでしょう。
テレビのワイドショーの制作者たちは、日常から視聴者の不安を煽って視聴率を稼ぐ癖が身に付いていますから、新型コロナウイルスの脅威を必要以上に煽り立て、日本国中を集団ヒステリーのような状態にしてしまいました。
不安を煽られた田舎のチンピラや不良少年たちは、東京ナンバーの自動車に10円玉で傷をつけ、石を投げます。
誰もが、自分の行動の結果について考えることなしに、「いつも通り」の習慣的行動に終始しているのです。
先日、財務大臣が、一律給付金の10万円が市場に出回らず、ほとんどが貯金として貯め込まれた、経済効果を発揮しなかったと嘆いていましたが、この不安なご時世で、多くの家庭がひとまず消費を差し控え、臨時収入を貯蓄に回すというのも、「いつも通り」の行動なのです。
それにしても、いくら「大衆消費社会」だからといって、個人の生活の中心になる行動が「買い物」だなんて、あまりにも悲しいと思うのは私だけではないはずです。