「福音」としてのCM
かつて、マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan 1911~1980)は、「現代において、全てのニュースはバッドニューズであり、ただ広告のみがグッドニューズ(good news 良い報せ、「福音(ふくいん)」)である」と皮肉な名言を残しました。
新聞やテレビが報じるニュースは、戦争に犯罪、会社の倒産、疫病の蔓延・・・。暗くて、悲惨で、不吉なものばかり。そんなものを見せられ続ければ、誰だって、この世が悪くなる一方のように感じてしまいます。
そんな時、新聞の片隅やテレビ番組の間隙から、希望の光が差し込みます。
それは、コマーシャル。宣伝、広告です。
現代社会では、CMこそが、一筋の希望、「福音」なのです。
「神は死んだ」とされる現代社会では、憂き世に絶望した人々が、救いをCMに求めるのです。
たとえば、健康不安を抱えた人々には薬品や健康食品のCMが救いの道を示します。
家族関係で悩んでいる人には、最新の調理器具やバーベキューセット、キャンピングカーなどのCMが救いの手を差し伸べます。
大衆消費社会の善男善女は、何かを買うことで自分が「救われる」と信じているのです。
しかし、こうした「グッドニューズ」の多くは「まやかし」です。
そんなことで健康不安が解消するわけではないし、家族関係が修復されるわけでもありません。
しかし、骨の髄まで消費者根性が沁み着いた人々は、裏切られても裏切られても、さらに新しい何かを購入すれば救われるかもしれないと、次の新製品に希望をつなぐのです。
国際金融資本に支配された大衆消費社会は、人々を「受動的」にし、自分の頭で考えないように「権威者」の言葉を鵜呑みにさせ、全ての価値が経済力で手に入ると信じ込ませます。
相対的に豊かであろうが、貧しかろうが、何かを買うことで幸せは得られません。
トイレットペーパーを買い占め、床の間に飾ったところで、新型コロナ肺炎は消えて無くなりませんし、誰も幸せにはなりません。むしろ、多くの人が迷惑を被(こうむ)ります。
ビートルズの歌(“Can’t Buy Me Love” )にもある通り、「お金で愛は買えない(money can’t buy me love)」のです。
貧しい者は、ついつい「お金さえあれば幸せになれるのに」と考えてしまいますが、その時点で、既にその人は洗脳されているのです。
そして、人々から見たCMが「福音」として輝き続けるように、マスメディアは絶えず人々の「不安」を煽り続けます。
「不安扇動者」の役割ばかりを演じていれば、人格も歪みます。ワイドショーのアンカーマンやコメンテーターたちの顔を一度じっくりご覧ください。疲れた顔をドーランで隠してはいますが、性格の歪みが顔に顕れているではありませんか。良心の呵責から、鬱病や神経症を発症する人も少なくないようです。
政治家や官僚たちもまた、こうした路線を踏襲して、自分たちこそが「福音」を告げる「予言者」や「司祭」であるかのように振る舞いますから、こうした社会で個人の「自由」や「主体性」を取り戻すのは至難の業かもしれません。