習近平の国賓来日が試金石。菅首相「米中バランス外交」の傾き具合

 

安倍政権以来の「米中バランス」論

かといって菅も、その原理的な認識を踏まえて石破を批判したのでなく、単に米国との同盟は引き続き「基軸」であるけれども、そうかと言って中国と戦争しようというつもりではないというコンベンショナルな意見を言ったにすぎない。このような曖昧な「米中バランス」論は、実は安倍政権からずっと続いているもので、菅もそれを継承していくつもりなのだろう。

2006年の第1次安倍政権では、安倍は最初の外国訪問先を敢えて中国とし、あれれ、親米タカ派のはずなのになぜ中国なの?というサプライズを演出した。しかしそれはあくまで目眩しの演出で、彼は外交方針の基調として「自由、民主、人権、法の支配などの普遍的価値観」を重視する「価値観外交」を打ち出し、麻生太郎外相はユーラシア南辺を覆う「自由と繁栄の弧」と表現したが、それらはつまり、北朝鮮・中国・ロシアなど旧共産陣営を封じ込めようとする米国発のネオコン思考の受け売りにすぎなかった。

2012年末に発足した第2次安倍政権では、それは米日豪印を支柱とする「安全保障の4角形(セキューリティ・ダイヤモンド)」という装いで再提出され(後述)、やがて2016年8月にケニアのナイロビで開かれた第6回アフリカ開発会議での基調演説「自由で開かれたインド太平洋戦略」としてまとまった形で発表される。ここでは、第1次政権での価値観外交のような漠然たる広がりではなく、中国による南シナ海進出に対抗することに焦点を絞って、米国を中心とした軍事作戦に日本も及ばずといえども馳せ参じる覚悟(そのために15年9月に安保法制を強行採決し「集団的自衛権」を解禁した!)まで示すことを含めた軍事戦略として提起された。

ところが1年もしないうちに空気が変わってきて、この軍事同盟的な臭いの強い「戦略」の語が次第に使われなくなり、それに代わって「構想(英訳ではビジョン)」が使われるようになった。きっかけは、17年1月にトランプ政権が発足し4月の習近平主席の訪米で(今では夢のようだが)ベタつくほどの蜜月ぶりを演出、それを見て慌てふためいた安倍は5月に北京で開かれた「一帯一路国際フォーラム」に出席する二階幹事長に「一帯一路に協力する」旨の首相親書を託し、なおかつ自分の名代として側近の今井尚哉秘書官を同行させたことである。そして安倍自身も、7月にハンブルグで開かれたG20サミットの機会に習と会談し「条件付き」ながら「一帯一路に協力」する旨を表明した。

戦略と言おうと構想と言おうと、その本質は「中国包囲網」ではあるのだが、その下で「米中バランス」論と言えば聞こえがいいけれども要するに米国が中国との対話に傾けば日本も対話に傾き、米中関係が険悪になれば日本も遠のくけれども、全面的な対決や断絶に陥ることだけは何とか避けたいというだけの、米国の衛星国の悲哀のようなことなのである。

菅はそれを踏襲しているだけなのだが、しかし彼の背後には、政権の生みの親であり自民党親中派の頭目である二階が控えていて、その二階は9月17日の石破派パーティでの講演でも「中国とは長い冬の時代もあったが、今や誰が考えても春。習近平主席の日本訪問を穏やかな雰囲気の中で実現できることを心から願う」と、ほとんど手放しの日中親密路線を語っている。そこには、すぐに親米反中に戻りそうになる安倍よりも菅の方が対中融和路線を進めやすいという気持ちがにじみ出ているので、右寄り勢力は苛立ちを募らせるのである。

なお、二階はこの講演で、習氏訪日の際には、新たな日中関係を定義する「第5の政治文書」が結ばれるはずだったと指摘。「世界の平和と繁栄を日本と中国が中心となって共に成し遂げる、いわゆる『共創』という決意を固めることになっていた」と明かした〔注〕。菅が対中国外交に乗り出し、延期された習近平国賓来日を来夏にも実現しようとする場合には、これが1つの焦点となる。

4つの政治文書とは、1972年「日中共同声明」(国交正常化)、1978年「日中平和友好条約」(「反覇権」)、1998年日中共同宣言(日中平和友好条約20周年)、2008年日中共同声明(戦略的互恵関係)、とりわけ中国側はこれら文書の文言の積み重ねを重視する。

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