現役教師が提唱。子供に勉強をさせるのに「やる気はいらない」説

 

しかしここで多くの人からツッコミが入る。「勉強やエクササイズのような、役立つものへのやる気が必要なのだ」と。その通りである。

では、ここについて考える。なぜゲームのように勉強に没頭しないのか。なぜ飲酒のようにエクササイズに没頭しないのか。両者の違いは何なのか。

違いの一つは、やる気が出やすいものの方は、他者からの達成目標が義務付けられていないものばかりである。ゲームにはクリア目標が無数にあるが、誰に強制された訳でもない(そもそも達成目標自体はゲームの要素の一つである)。

飲酒時にはここまで飲むべしという規定もないし、誰も毎日飲めとは言っていない。ただ、楽しんでいるだけだから、延々とやる。

一方の勉強やエクササイズには、自分を含めた誰かしらに義務付けられた達成目標がある(場合がほとんどである)。すると自分の中で「やらねばならない」という強迫観念が働く。

「やれば後々いいことがある」ということ自体はわかっている。しかし、どこか「ねばならない」という義務感があるのである。あまり楽しんでいないといえる。逆に考えれば、その義務感さえなければ、両者は「行動」という点では同じである。

ただただやっている状態。ゲームに没頭し続けている時、飲み続けている時と、これはほとんど同じ状態である。やり続けると体が疲れる、眠いなど、それなりに苦痛が伴っている点も同じである。

では、どうすればいいのか。

一つは、何も考えないことである。やる気を出そうとかしないで、やる。ただ、これがあるからやる。それだけしか考えない。考えれば考えるほど、やれない言い訳、やることによる苦痛を探し出すからである。

洗い物などはわかりやすい。

やる気が出るまで置いておくと、溜まりまくる。「今は食べた後の幸福感を無駄にせず味わいたいから」「次のものと一緒に一気にやった方が時間の節約になる」等々、非論理的な理由を並べたて始める。結果、いつまでたっても、やらない。一人暮らしなのに食器が結構な数あるような人だと、尚更やらない(家族がいる人は、強制力が働くので、どこかで必ずやる。しかし、他の誰かしらがやってくれるとなると、毎回やらない)。

一方、「食べ終わる→洗う」という流れを無思考で行えば、洗い物は終わる。その時、途中で何も考えないことがコツである。

掃除は、この点がとてもいい練習になる。お寺では「何でこの寒い中床を拭かねばならないのか」「次々葉が落ちてくる季節に落ち葉を掃く意味があるのか」とは考えない。理屈であれこれ考えだせば、愚痴や不満が出て、行動が止まるだけである(結果的に余計な苦痛を伴う)。

作務として行う。ただ行う。そこに集中する。すると、心がすっきりする。「お寺で決まった時間に作務を行う」というのは決まり事であり、言うなれば他律的自律である。

要は、やることについてあれこれ考えないこと、変なやる気を出そうとしないことがコツである。例えば「ごみが落ちている→拾って捨てる」というこの一連の動作の思考を0にすることである。

「ごみを拾う」という動作自体にやる気は必要ない。「これを拾えばいいことがある」などという打算的なことも「自分の手が汚れて嫌だ」などという利害についても考える必要はない。ただごみが落ちているから拾う、それだけである。

勉強やエクササイズも同じ。ただやる。勉強の中であれこれ思考することは必要だが、やる前にあれこれ考えても、初期動作に邪魔なだけである。エクササイズの最中に、動いている筋肉を意識することは大切だが、やる前に「疲れるかも」とか色々考えることは始める際に邪魔である。

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