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シティ・ポップの空を翔ける“一羽の鳥” 〜作曲家・滝沢洋一が北野武らに遺した名曲と音楽活動の全貌を家族やミュージシャン仲間たちが証言。その知られざる生い立ちと偉大な功績の数々

70〜80年代にかけて、「シティ・ポップ」の名曲を数多く生み出した一人の作曲家、シンガー・ソングライターがいました。そのアーティストの名は、滝沢洋一(たきざわ・よういち)。コーラス・グループ「ハイ・ファイ・セット」に名曲『メモランダム』を提供したことで知られる彼の生い立ちは、長い間ベールに包まれたままでした。今年で没後15年を迎える滝沢洋一が歌手や女優、アイドルらに遺した数多くの名曲をはじめ、その音楽活動と生い立ちの全貌を、ご遺族やミュージシャン仲間たちへの取材によって得た証言を元に辿ります。そこから見えてきたものは、「シティ・ポップ」ブームの影の立役者による偉大な功績の数々でした。 ※2021年12月に中文版(繁体字)を公開

プロローグ〜空前の世界的「シティ・ポップ」ブーム。海外から日本へ注がれる“熱い視線”

いま、海外の音楽ファンたちの間で、日本の「シティ・ポップ」が大ブームとなっている。70〜80年代に日本で発表された「海外のカルチャーに憧れを抱き、都会やリゾートでのライフスタイルを求める若者文化を背景にして生まれた和製ポップス」は「シティ・ポップ」という共通言語で呼ばれ、その音楽性は高く評価されている。

それまでオリジナルのアナログ盤かCDを「日本国内で」手に入れなければ聴くことの出来なかった、これら「シティ・ポップ」と呼ばれる楽曲群は近年、ネットやスマホの普及で日常的に視聴されるようになった動画投稿サイト「YouTube」のレコメンド機能が海外リスナーたちへ次々と表示した「おすすめ動画」によって“発掘”された。

YouTubeでシティ・ポップ関連の動画を視聴すると、右側のオススメに関連動画が次々と紹介される

そんな「シティ・ポップ」と呼ばれる楽曲も、当初は海外の好事家たちの間でのみ聴かれていたが、最近になって職人技光るスタジオミュージシャンたちの演奏能力の高さと、洋楽に追いつけ追い越せとばかりに、きめ細やかに紡がれたアレンジやミックスのクオリティーが評価され、数年前より海外リスナーたちが「シティ・ポップ」のアナログ盤を買い求めるために来日し、渋谷・新宿のレコード店をハシゴするという一大ブームを巻き起こすまでに至った。

また、歌手の松原みき(2004年に他界)のデビュー曲にしてシティ・ポップの名曲として名高い『真夜中のドア~stay with me』(1979)が、2020年12月に世界92か国のApple MusicのJ-Popランキング入りを果たし、音楽サイトのみならず、一般のニュースサイトや新聞各紙でも取り上げられて話題となったことは記憶に新しい。

松原みき『真夜中のドア~stay with me』シングル盤(1979)

● 松原みき「真夜中のドア~stay with me」なぜ今話題に? 世界のシティ・ポップ・ファンに愛されたアンセム<コラム>(billboard Japan)

現在、山下達郎、竹内まりや、大貫妙子、角松敏生、吉田美奈子、松下誠らのソウルフルで洗練された楽曲を収録する当時のオリジナルアナログ盤が入手困難になっている現象は、そんな「シティ・ポップ」ブームの“氷山の一角”である。

「シティ・ポップ」ブームを代表するアルバム、山下達郎『FOR YOU』(1982)、大貫妙子『SUNSHOWER』(1977)

この世界的なブームによって、日本人が過去の自国の楽曲に関心を持ち、かつ「欧米に対して胸を張って」耳を傾けることができる時代が到来したことで、近年は埋もれた名曲や作曲家、ミュージシャンたちにも光があてられるようになった。

本稿は、そんな空前の世界的「シティ・ポップ」ブームの中を空高く翔ける“一羽の鳥”の物語である。

37年ぶりに日の目を見た一枚のアルバム

2015年7月29日、ある一枚のCDアルバムが日本のタワーレコードとソニーミュージックショップ(オンライン)で限定発売された。

そのアルバムの名は、『レオニズの彼方に』。レオニズとは、毎年11月頃に出現する「しし座流星群」のことである。

オリジナルのLPレコードが発売されたのは1978年10月5日。しかし、37年間で一度もCD化されず、日本のポピュラー音楽史の中では半ば忘れられた存在だった。販売先であるタワーレコードの「商品紹介」を以下に引用しよう。

「ユーミンを世に送り出した村井邦彦のALFA 製作の東芝/EXPRESSから発売されながらヒットせず、全曲をあの佐藤 博がアレンジしていることやその希少性からシティ・ポップス・ファンから再評価著しい逸品。(中略)そんな名曲を豊かに彩るのはアレンジの佐藤 博 (Key) 、村上秀一(ds)、林 立夫(ds)、青山 純(ds)、鈴木 茂(g)、松木恒秀(g)、松原正樹(g)、鳥山雄司(g)、松岡直也(p)、高水健司(b)、伊藤広規(b)など確かな腕を持つ一流ミュージシャン達。」

ここまで豪華なミュージシャンの参加を実現できたのは、このアルバムを製作したアルファレコードの創始者で、名曲「翼をください」の作曲で知られる音楽家・村井邦彦氏による「鶴の一声」があったことは想像に難くない。それほど村井氏に才能を認められていたアーティストだったということだろう。

そんな幻の作品に光をあてたのが、シティ・ポップの名曲を独自の視点で選曲したガイド本「ライトメロウ」シリーズや復刻CDなどを企画・監修し、このアルバムの初CD化を実現させた音楽ライターの金澤寿和(かなざわ・としかず)氏だ。

金澤寿和氏のHP「Light Mellow.com

金澤氏はCD化の苦労をこう振り返る。

「このアルバムを紹介したのは、私が企画・監修したディスクガイド『ライトメロウ和モノ 669』(2004)の中で、「職人による知られざる奇跡の名盤その3」と銘打ったのが最初でした。

「その1」と「その2」は比較的早くCD化できましたが、『レオニズの彼方に』は10年以上を費やしました。

業界内の評価は高かったのに、それだけ無名だったんです。CD化が決まった時は感激しました」(金澤寿和氏)

そんな奇跡の名盤、『レオニズの彼方に』を生み出した人物こそ、本稿の主役であり作曲家シンガー・ソングライター滝沢洋一(たきざわ・よういち)である。

誰も知らなかった、シティ・ポップ幻の名盤『レオニズの彼方に』

滝沢洋一は70年代から80年代にかけて、洋楽の影響を受けたハイクオリティーな名曲を数多く発表したアーティストだった。

元「赤い鳥」のメンバー3人で結成されたコーラスグループ、ハイ・ファイ・セットに「メモランダム」(作詞:なかにし礼)という曲を提供した作曲家、と言えばピンと来る人もいるのではないだろうか。

ハイ・ファイ・セット『メモランダム』シングル盤(1977)

先ほど、「だった」と過去形で書いたのは、彼がすでに鬼籍に入っているためである。滝沢は、本稿公開のちょうど15年前の2006年4月20日、まだ56歳の若さで逝去した。

滝沢の生涯唯一のソロアルバムとなった『レオニズの彼方に』は、2015年にタワレコ限定でCDが発売されるや、日本の音楽ファンの間で「隠れた名盤」「奇跡の一枚」と高く評価され、オリジナルのLPレコードは現在も数万円という高値で取引されている。タワレコ店員のレコメンドを借りるならば「捨て曲が見当たらない」、まさに奇跡の「シティ・ポップ」アルバムだ。

このアルバムは現在、各種音楽配信サービスで「サブスプリクション解禁」となっており、スポティファイ(Spotify)のアプリをインストールしていれば、世界中どこからでも無料で聴くことができる。まずは、1978年当時の感覚では早すぎた美しいメロディと、参加ミュージシャンたちのスリリングな演奏の数々をお聴きいただきたい。金澤氏が10年以上をかけてCD化に奔走した努力は、同アルバムの全世界配信という形で実を結んだ。

滝沢の「クセのないヴォーカル」は、聴けば聴くほど「クセになる」のだから不思議だ。この楽曲センスと演奏クオリティーに対して、初めて聴いた音楽ファンからの評価は極めて高い。

しかし、ここで一つの疑問が湧く。ここまで高評価を受けながら、今まであまり注目されてこなかった「タキザワ・ヨウイチ」とは、一体どんなアーティストだったのだろうか?

没後15年という節目を迎えた今、ベールに包まれていた「シティ・ポップ」ブームの影の立役者「滝沢洋一」の音楽活動の全貌と、多くの歌手やタレント、女優らに提供された名曲の数々を、音楽関係者やミュージシャン仲間、ご遺族からの証言をもとに辿ってみたい。そこには私たちが知り得なかった、日本の「シティ・ポップ史における偉大な功績がいくつも隠されていた。

バックバンド「マジカル・シティー」元メンバーが語る滝沢洋一

今までも、そして現在も、滝沢洋一の生い立ちや経歴は多くの謎に包まれている。彼についてはネット上をくまなく探しても極めてわずかな情報しかなく、分かっているのは、以下の項目くらいである。

マジカル・シティー」。

今から45年ほど前に、東京出身のミュージシャン4人が集まって結成されたアマチュアバンドである。しかし、そのメンバーは実に豪華だった。

シティ・ポップを象徴する人気曲「プラスティック・ラブ」や「RIDE ON TIME」などのレコーディングに参加し、山下達郎&竹内まりや夫妻の“リズム隊”として長年活躍。数多くの歌謡曲や大物歌手のバックを務めてきたベーシストの伊藤広規氏と、ドラムの青山純氏。

そして「君は1000%」や「時をかける少女」「1986年のマリリン」「雨音はショパンの調べ」「君たちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね」など、大ヒット曲のアレンジを多く手掛けてきた、キーボディストで編曲家の新川博氏。

15歳でCharらとのバンド「バッド・シーン」でデビューし、米バークリー音楽大学へ留学した後に、グラミー賞ブルース・ハープ奏者シュガー・ブルーのバンドに14年在籍した、伝説のギタリスト牧野元昭氏、の4人である。

マジカル・シティー:(1975年結成)

青山純(ドラム)1957年3月10日生
伊藤広規(ベース)1954年2月19日生
新川博(キーボード)1955年7月26日生
牧野元昭(ギター)1956年2月11日生

作成・画像提供:伊藤広規office

まさに、いま世界で起きている「シティ・ポップ」ブームの立役者たちが一つに結集した奇跡のようなバンドだ。そんな彼らのプロデビューのきっかけが滝沢のバックバンドだったという事実は、あまり知られていない。

今回、シンガー・ソングライター時代の滝沢を知る、数少ないミュージシャン仲間である「マジカル・シティー」の元メンバー3人(青山氏は2013年に他界)にお集まりいただき、当時の思い出や滝沢についての貴重なエピソードをご披露いただいた。

「マジカル・シティー」元メンバーへの取材は、コロナ禍の時世に配慮してリモートでおこなわれた。左上から新川博氏、伊藤広規氏、画面下が牧野元昭氏


メンバーと滝沢洋一の邂逅

──この度は、皆さまお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。日本の「シティ・ポップ」に世界から注目が集まる中、名盤と評価の高い『レオニズの彼方に』(1978)を発表した滝沢洋一さんが、音楽活動を始めた当時のことを記した文献や記事はほとんど存在せず、関係者の方にお話をお伺いするしかないと考えまして、滝沢さんのバックバンドを務められていた「マジカル・シティー」の元メンバーの皆さまに、当時の貴重なお話をお伺いさせていただきたいと思います。

実は、マジカル・シティーのことを知りましたのも、偶然ネットに2013年頃のラジオ番組の書き起こしテキストが上がっており、その中で伊藤広規さんと青山純さんが一瞬このバンド名を出されていたことで、滝沢さんとマジカル・シティーの繋がりが判明した次第です。まずは、バンド結成のきっかけ、メンバーとの出会いからお話しいただけますでしょうか?

新川博(以下、新川):メンバーのうち、青山純と俺が一番先に出会ったんだよね。高校生の時に付き合ってた彼女が「うちの高校にもドラムの上手い子がいるよ」って紹介してくれたのが最初。1973年頃かな、世田谷区の瀬田に住んでいて、青山は上野毛(かみのげ)に住んでるって言うから会いに行ったわけ。普通、高校生だったら日曜日って家にいないじゃん。でも、青山は日曜なのに家にいてドラム磨いてるんだよ(笑)。色白の少年でさ、これがメンバーとの最初の出会い。確かに滝沢さんのバックバンドはやっていたけど、その前に広規と俺が同じバンドでやってたよね? 慶応の「ファライースト」。

伊藤広規(以下、伊藤):そう、慶応大学の黒人文化研究会というサークルの「ファライースト」っていうディスコバンドの演奏を手伝っていて、メンバーは新川がキーボード、あとは牧野と一緒に「バッド・シーン」というバンドでドラムをやってた長谷川康之、ギターはアイク植野、それと俺が初めてベースで参加したバンドだったの。実は、それまでずっとギタリストだったんだよ。ボーヤが、まだ高校生だった青山純(笑)。長谷川とスキー場で知り合って、ファライーストに誘われたんだよね。その後、新川の家で初めて青山に会ったんだよ。滝沢さんと出会ったのは何処だったっけ?

新川:ファライーストの中に、トランペットを吹いてた慶応の有本俊一(2020年に他界)がいたじゃん? 有本の親父さんも、滝沢さんの親父さんも外務省の外交官だったの。で、市ヶ谷に子弟寮という、親が海外に赴任している間に住める学生寮があって、そこに皆でたむろってたんだよね。

牧野元昭(以下、牧野):たしか「子弟育英寮」って言ったよね、よく行ったよな。

新川:当時はみんな大学生だったんだけど、学校がストライキやってたから授業がなかったんだよね。だから慶応の学生たちも学校に行かないで、育英寮のワンベッドルームで毎日マージャンしてたんだよ(笑)。

──たしかに、70年代当時は日本中の大学でストをやっていて、休校している学校が多かった時代でしたよね。

新川:そのトランペットの有本の先輩として紹介されたのが、滝沢洋一さんだったんだよね。そのとき、滝沢さんのバックバンドをやることになったんじゃなかったかな。これがきっかけで、マジカル・シティーを結成することになったんだよね。

アマチュアバンド「マジカル・シティー」結成。命名者は滝沢

牧野:そのマジカル・シティーという名前は、滝沢さんが命名したんだよ。

伊藤:それ、俺は覚えてるよ。六本木にあった「デリー」っていうカレー屋で名前が決まったんじゃなかったかな。STUDIO BIRDMANの地下にあった店。当時マネージャーがいたよね、篠原っていう慶応の学生。いつの間にかいなくなったけど(笑)。「世界のマジカル!」とか言って盛り上がってたんだよ。で、滝沢さんのバックバンドをやるってことになって、育英寮の中で演奏したりしてたんだよね。

1975年頃にマジカル・シティーのメンバーと市ヶ谷・育英寮で。左の帽子の男性が滝沢。真ん中上が牧野、下が青山、新川の各氏。伊藤氏が撮影か(滝沢家提供)

──皆さんがお知り合いになったのは、滝沢さんがアルファレコードと契約する前だったんですね。

新川:滝沢さんは最初、アルファの前にRCAレコード(現在解散)と契約してたんだよ。目黒のモウリスタジオで滝沢さんの曲のデモテープを録音した記憶があるよね。

伊藤:そうそう、モウリスタジオだよ! そのときRCAのディレクターに演奏のことで怒られて、あとで青山と俺とで合宿に行ったのを覚えてる(笑)。

新川:RCAのデモテープ録音のあとに、滝沢さんがアルファの社長だった作曲家の村井邦彦さんと知り合って、それからアルファ経由でマジカル・シティーにデモテープ録音の仕事が来たんだよね。

伊藤:そうだった、そうだった。それからアルファとの仕事が始まったんだよ。

舞い込んできた、デモテープ録音の仕事

新川:アルファは当時、まだ「アルファミュージック」っていう音楽出版社で、東京・田町の東急アパートにあったの。あの頃はデモテープを作るのって大変で、今みたいに自宅でDTM(デスクトップミュージック)で音楽が作れるような時代じゃなかったから、村井さんが「作曲家たちの作った曲のデモテープを作ってくれないか?」って僕たちに依頼してきたんだよね。

村井さんの自宅が文京区音羽にあって、そこに簡単なスタジオがあったの。後に「LDKスタジオ」になるんだけど、そこでマジカル・シティーの4人が毎日のように、アルファ所属の若手アーティストの作った曲のデモテープを録音させられていたんだよね。広谷順子とか。

伊藤:そう、まず育英寮で滝沢さんと知り合って、その寮で演奏して遊んで、滝沢さんがバンド名を命名した後にRCAで滝沢さんのデモテープを録って、今度はアルファに滝沢さんが移ったところで、アルファからマジカル・シティーに作曲家のデモテープを作る仕事が入ってきた、という順番だよね。

牧野:順番からいくとそうだね。この4人のメンバーを集めたのは新川なんだよな。

伊藤:だから滝沢さんとこの4人のバンド活動って、その育英寮の中で演奏して遊んでいた時と、RCAのデモテープ録音くらいなんだよね。

市ヶ谷・育英寮にて。上から牧野、滝沢、青山の各氏(滝沢家提供)


「ニューミュージック」の名付け親は、滝沢洋一とマジカル・シティー説

新川:滝沢さんは持病があったから身体が弱くて、当時から入退院を繰り返してたの。だから滝沢さんとライブはやらなかったよね?

牧野:いや、やったことあるよ。実は、そのライブに関してとても面白い話があって、俺はよく覚えているんだけど、たしか広規が話を持ってきた、志賀高原丸池スキー場」(長野県)でのラジオ公開録音の仕事があったの。76年の初め頃かな。

伊藤:あれー、全然覚えてないや(笑)。

ラジオの公開録音がおこなわれたライブ会場(滝沢家提供)

牧野:ライブ演奏を公開録音したんだけど、みんなで楽屋にいたときに、滝沢さんがラジオの司会者からもらった紙を見て「ウーン」っていろいろ考えてるわけ。何を考えていたのかというと、インタビューに答えて下さいって依頼があって、その質問のひとつに「どんな音楽を目指しますか?」って書いてあるの。どんな音楽って言われてもなぁって困ってて、滝沢さんが「まあ、新しい音楽とか言うしかねぇだろ」って。そこで、俺がなんとなく「じゃあ、ニューミュージックとか言うの?」って言ったの。

伊藤:そのまんまじゃん(笑)。

牧野:滝沢さんも「それじゃ、なんか分かんないよ」って言ってたんだよ。で、実際に司会者からインタビューされるときに「滝沢さん、どんな音楽を目指しますか?」って聞かれたら、「そうですね、ニューミュージックですね」って言っちゃったの(笑)。そうしたら、その後でアルファレコードから出るいろいろなレコードのキャッチコピーに「ニューミュージック」という言葉が使用され始めたのよ。だから、「ニューミュージック」っていう言葉は、滝沢さんがラジオの公開録音で言った言葉がおそらく最初なの。楽屋で「ニューミュージックとか言うの?」って滝沢さんに言っちゃったの俺なんだよ。

──すごい話ですね、これは日本中で誰も知らない「ニューミュージック」 誕生の瞬間ですね(笑)。

牧野:だから、滝沢洋一とマジカル・シティーが、たぶんニューミュージックの名付け親なんだよ(笑)。新川、この録音テープ持ってなかったっけ? 誰かが録音テープを持ってて聞かせてくれたんだよなぁ。世の中の真実なんて、大体こんなもんなんだよね(笑)(編集部註:後日、この録音テープは現在も滝沢家が所有と判明)。

──当時、アルファといえば「ニューミュージックのレコード会社」というイメージがありましたよね。

伊藤:この時代は何やっても先駆者になれたよなぁ。

新川:そういう時代だったかもしれない。まだフォークとかロックという言葉くらいしか無かったし。

広規は「ファライースト」の頃から、しょっちゅうスキー場で演奏してたんだよね。志賀高原の志賀ハイランドホテルに電話して「従業員部屋につないでください、伊藤広規くんお願いします」って、練習のたびに東京へ呼び寄せてたんだよね(笑)。

伊藤:俺が東京にいないことが多いから、バンドメンバーが志賀高原まで遊びにきた記憶はあるんだよ。新川と青山と、あと何人か。そこに滝沢さんもいたのかな? ラジオの公開録音の話は、そのときだったのかもしれない。

新川:あの当時、なんでスキー場で演奏する仕事が多かったんだっけ?

伊藤:当時のスキー場はアマチュアバンドでも演奏できたの。あの頃のスキー場はいろいろな人が呼ばれてたよ、内田裕也(2019年に他界)とか、カルメンマキ&OZとか、渡辺貞夫とか、日野皓正とか。

新川:昔はカラオケがないから生で演奏するしかないんだよね。

伊藤:最高に盛り上がってたよね。スキー場で長谷川に会ったのが運のツキで「ファライースト」に呼ばれたわけよ。そこでベースを始めることになったわけ。

新川:あの当時、ベースって日陰者だったよね。だから誰もベースなんてやりたくない、みんなギターをやりたいの(笑)。

伊藤:ギタリストだったらベースできるんだろ? っていう感じだったんじゃないかな。ベースなんてジャンケンで負けてやるやつだったもんな(笑)。でも、ラリー・グラハム(スラップ奏法の始祖)がいたからベースにハマっちゃったんだよね。

新川:でも広規がベース始めた頃は、勝手にリードとって前に出てくるから「もっとベースらしくしろ!」ってよく俺が怒ってたよな(笑)。

まさかのメンバー脱退、そしてプロへ

伊藤:そうこうしているうちに、新川がハイ・ファイ・セットのバックバンドに加入するからって「マジカルを脱退したんだよね。

新川:あれは76年だったかな。ハイ・ファイ・セットのバックは「ガルボジン」っていう名前で、松任谷正隆さんがキーボード、松原正樹(2016年に他界)がギター、重田真人がドラム、宮下恵補がベースだった。そのガルボジンが吉田拓郎のツアーに半年くらい同行するから、ハイ・ファイ・セットがバックバンドを募集することになって、毎日スタジオでデモテープ録音しているマジカル・シティーっていうのがいるから、奴らにバックをやらせようということになったの。これで、僕らは初めてちゃんとしたギャラをいただく仕事ができたわけ。

伊藤:そうそう、初めてだったよね。

──やっと、プロとして仕事ができるようになったんですね。

新川:ハイ・ファイはバード・コーポレーションという事務所にいたから、その所属アーティストのバックも任されたんだよ、フォークシンガーの田山雅充とか。「あなた」の小坂明子さんもやったよね。コンサートツアーにも同行したり、半年くらいそんな生活してたんだけど、ガルボジンが拓郎のツアーから帰ってきて、僕らはお払い箱になっちゃった。ところが、松任谷さんが由実さんと結婚する頃で、これから奥さんの仕事しなきゃいけないから、新川くんだけ残ってよって言われて。松任谷さんの代わりにガルボジンに加入することになったの。それで、俺だけ「マジカル」を脱退したんだよね。

名盤『レオニズの彼方に』レコーディング秘話

伊藤:新川が抜けたあとに、ちょうど滝沢さんがソロアルバムをレコーディングするっていう話になって。それが『レオニズの彼方に』なんだけど、佐藤博さん(2012年に他界)が全曲アレンジを担当することになって、この録音で初めて佐藤さんに会ったんだよ。新川の代わりには小池秀彦というキーボードが入ったけど、『レオニズ〜』はほとんど全曲を佐藤さんがキーボード演奏したから、小池はレコーディングに参加はしていないんだよね。

牧野:佐藤さんとバンドを組むことになった経緯は何だったんだっけ?

伊藤:『レオニズ〜』の録音が終わった後、1978年6月に佐藤さんの31歳の誕生日をお祝いしようって、みんなで「サーティーワン」のアイスクリームケーキを持って佐藤さんの自宅へ行ったんだよ。そのとき、佐藤さんから「長い付き合いをしたいんやけど」って言われて、マジカル・シティーはバンド丸ごと佐藤博さんに抱えられて、パーカッションのペッカー(橋田正人)も加えて「佐藤博とハイ・タイムスが結成されたんだよ。

日比谷野音で行われた「佐藤博とハイ・タイムス」のライブの一コマ。左から、小池秀彦、伊藤広規、佐藤博、青山純、ペッカー(橋田正人)、牧野元昭。伊藤広規office提供

牧野:そうだったっけ、まったく覚えてないな(笑)。

伊藤:だから、滝沢さんと最後に仕事したのはレオニズ〜の録音が最後で、その後にツアーはやってないよね。このときぐらいから滝沢さんは作曲家活動に入ってたから。

──『レオニズ〜』では、どの曲を演奏したのか覚えていますか?

牧野:俺が覚えているのは「最終バス」っていう曲。あれはいい曲だったから、いまだにメロディー覚えているんだよね。

──アルバムの一曲目ですね、この「最終バス」はシングルカットもされています。

● 滝沢洋一最終バス(1978)

作詞:山口純一郎
作曲:滝沢洋一
編曲:佐藤博
アルバム『レオニズの彼方に』(1978)所収

伊藤:これ、当初より大分アレンジが変わったんだよね。

『レオニズ〜』のことでよく覚えているのは、アルバムには入らなかったんだけど「日よけ」っていう曲があって、その曲が俺は一番好きだった。かなりカッコイイ曲だったのよ、音源が今もあるか分からないけど、たぶんデモテープを録っただけだったと思う。

──『レオニズ〜』はラテン・ピアノの第一人者、松岡直也さん(2014年に他界)が参加されています。レコーディング時のことを覚えていらっしゃいますか?

伊藤松岡直也さんのレコーディングを見学した記憶はありますよ。佐藤博さんと見てて「やっぱり凄いね、この人」って(笑)。松岡さんは、すべてのリズムセクションを録り終わったあとに「かぶせでピアノを録音したんだよ。だから松岡さん一人で来て入れたの。このとき「こんな凄いオッサンがいるんだ!」って初めて認識したね。この一年後くらいに、松岡さんの『Majorca』(1979)っていうアルバムに、村上ポンタ秀一(2021年に他界)らと一緒に参加することになるんだけど。

──その他、滝沢さんの曲を録音した当時で覚えていることはありますでしょうか?

牧野:滝沢さんは、本当にスティービー・ワンダーが大好きだったんだよ。意外なコード進行展開とか、絶対に影響を受けていると思う。あと、もの凄く強いメロディーを書くんだよね。ソングライターでも、コード進行に凝ってる割にメロディーが単調な曲を作る人って多いじゃない? でも、彼は絶対にそういう曲は書かなかったよね。滝沢さんの書く曲は、楽器で弾いてもサマになるメロディーだったと思う。

新川:覚えているのは、滝沢さんがスティービーの歌い回しとかをコピーして真似してみせるんだよ、「こうだろ? こうだろ?」っていう感じで(笑)。

伊藤:そうだった、そうだった(笑)。

脱退後に聴こえてきた滝沢メロディ

──いまYouTubeにガルボジンがバックで演奏している、ハイ・ファイ・セット「メモランダム」のライブ版という音源がアップされているんです。滝沢さんの代表作ですが、これはマジカル・シティー脱退後にガルボジンに参加した新川さんが演奏されていますよね?

新川:うん、そうだと思う。ガルボジンに入ってしばらくしてから、滝沢さんの曲をハイ・ファイ・セットが歌うって聞いて、滝沢さん懐かしいなって思ったんだよね。ハイ・ファイ・セットのレコードに入ってる「メモランダム」は、米ロサンゼルス録音なんだよ(アルバム『ダイアリー』)。その録音、当時ハイ・ファイにLAまで連れていってもらってA&Mスタジオで見学しているんだよ。

ドラムはハーヴィー・メイソン、ギターにリー・リトナー、編曲がボブ・アルシバーだったかな。マジカルを脱退して久しぶりに滝沢さんの作曲した「メモランダム」を聴きながら、ああ懐かしいなって思った記憶があるな。

元メンバーたちが語る「滝沢洋一」

──では最後になりましたが、滝沢洋一さんという音楽家について、一言づつお願いできますでしょうか。

新川:この歳になって、当時のいろいろなことをみんながアーカイブし始めたことで、滝沢さんってあの時代を自分と同じように生きてきた人なんだなぁと改めて思いましたね。そして滝沢さんが、今回のようなインタビューの話や、村井邦彦さんユーミンとかを自分に引き寄せてくれた人だったんだなって。だから、メンバーが生きているうちは、こういった思い出話を酒の肴にして遊ぶのも悪くないなって思いますね。

伊藤:滝沢さんは本当に良い曲を書くよね。レコードには入らなかった「 日よけ」っていう曲の話をしたけど、この曲が一番印象的だった。さっきみんなで聴いた「最終バス」も、今だにフレーズを覚えてるくらい印象に残ってる。これまで散々いろいろな仕事をしてきているのに、これだけ強く印象に残るっていうのは、本当に凄い人なんだなって改めて思いました。今の時代に聴いても「いいなぁ」って思える曲を書く作曲家でしたね。

牧野:俺は新川や広規に比べてバックの仕事は少ないから、たくさんのソングライターと仕事しているわけじゃないんですけど、滝沢さんって本当にいいライターだったと思います。メロディーが強いし印象的だし、何と言ってもコードが洒落ていたよね。「最終バス」も、後から佐藤博さんがアレンジをしたっていうのはあるんだけど、スティービー並みの意外なコード進行とか、元々のコードが洒落ていたから佐藤さんもいじり甲斐があったんだと思いますね。

伊藤:みんな、まだ元気だったら滝沢さんの曲をライブでやろうよ、マジカル・シティー再結成で! 青山の代わりは息子の青山英樹に頼んでさ、彼は本当にいいドラマーなんだよ。だから、また「マジカル」やるんだったら青山の息子を誘おう。滝沢さんの娘さんも歌を仕事にしているみたいだから、ヴォーカルに誘ってさ。滝沢さんのキー高いから、そのままでいけるんじゃないかな。

新川:うん、コロナが落ち着いたら是非やりましょう!

牧野:なるほど、そうだね。やろう!

──本日はお集まりいただきましてありがとうございました。再結成のマジカル・シティーで、オリジナルメンバーによる滝沢さんの曲が聴ける日を楽しみにしております。


約2時間にわたる「マジカル・シティー」リモート座談会は、笑いが絶えない「同窓会」のような雰囲気で、始終盛り上がりっぱなしであった。ここで分かったことは、滝沢が多くの後輩ミュージシャンたちに慕われ、そして多くの人脈を繋ぐ役割を果たしていたということだ。

滝沢はソングライターとして存在感のある優れた楽曲を作り続け、その作品は40年以上の時代を経てもミュージシャン仲間たちの耳に残り続けている。滝沢サウンドの魅力が詰まった名盤『レオニズ〜』は、仲間たちと過ごした時間や苦楽を共にした経験が折り重なって完成したのだと感じた。

マジカル・シティーのメンバーらとソロアルバムを作り終えた滝沢は、その前後から多くの歌手やタレント、アイドルたちに楽曲を提供する「作曲家」として、活躍のフィールドを広げてゆくことになる。

国内外で注目され始めた、ビートたけしへの提供曲「CITY BIRD」(シティーバード)

滝沢は名盤『レオニズの彼方に』(1978)で28歳という遅咲きのデビューを飾った後、同年にアルバムからのシングルカット『最終バス』、1980年にセカンドシングル『マイアミ・ドリーミング』、そして1982年のサードシングル『サンデーパーク』を最後にソロシンガーとしての活動を終えた。シンガー・ソングライターとしては、たった1枚のアルバムとシングル盤3枚しか発表していないことになる。

だが、ソロ活動と前後して1977年頃より、錚々たるアーティストたちに曲を提供する「作曲家」としての活動を開始している。滝沢が亡くなるまでの間に発表した楽曲は、現在分かっているだけで100曲を超える。

そんな数多くの作品の中でも、名曲の誉れ高い一曲が、1982年にビートたけしへ提供した「CITY BIRD」(シティーバード)だ。

たけしの哀愁漂うヴォーカルが魅力のブルース・ナンバー

ビートたけしは、前年からの漫才ブームとCX系「オレたちひょうきん族」の人気で大忙しの1982年6月21日に、ファーストアルバム『おれに歌わせろ』を発売。その中の一曲として滝沢から提供されたのが、東京を舞台にしたブルース・ナンバー「CITY BIRD」である。

ビートたけしのファーストアルバム『おれに歌わせろ』(1982)

作詞は、矢沢永吉「時間よ止まれ」や「宇宙刑事ギャバン」主題歌などを手掛けた、作詞家の山川啓介(2017年に他界)と滝沢の共作

アレンジは、「〜ひょうきん族」のEDテーマ曲だったEPOの『DOWN TOWN』(シュガー・ベイブのカバー曲)の編曲を林哲司とともに担当して1980年に編曲家デビューした清水信之である。

EPOのデビューアルバム『DOWN TOWN』(1980)

まずは、ビートたけしの歌う滝沢作品「CITY BIRD」をお聴きいただきたい。たけしにしか醸し出すことのできない、哀愁と郷愁とがあふれる味わい深い傑作だ。

● ビートたけし/CITY BIRD(1982)

作詞:滝沢洋一・山川啓介
作曲:滝沢洋一
編曲:清水信之
アルバム『おれに歌わせろ』(1982)所収

実は近年、たけしが歌唱する「CITY BIRD」の評価が国内外でじわじわと高まってきている。

音楽ライター、ミュージシャン、音楽ファンが絶賛する「CITY BIRD」

青春エッセイ『ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック』(晶文社)の著者として知られる、編集者・音楽ライターの松永良平(まつなが・りょうへい)氏は1月、たけしの「CITY BIRD」をツイッターで以下のように評した。

「CITY BIRD」を熱唱するたけしの歌唱力を、「Hit Me With Your Rhythm Stick」のヒットで知られる英国のニュー・ウェイヴ、ファンクのロックミュージシャン「イアン・デューリー」の日本版となる道もあったのでは、と絶賛している。松永氏は続ける。

この「CITY BIRD」を、「お気に入り10選」に入れたミュージシャンもいる。ロックバンド「サニーデイ・サービス」のベーシスト田中貴(たなか・たかし)は、HMV&BOOKS onlineの『サニーデイ・サービス 田中貴のお気に入り音源10選』という記事の中で、たけしの「CITY BIRD」を紹介している。

ボーカルの圧倒的な存在感と、清水信之さんの感動的なアレンジ。この曲を聴いていた中学生の頃、夢見た東京の街は四谷三丁目だった。僕の中のアーバン・ブルーズ。(出典:HMV&BOOKS online『サニーデイ・サービス 田中貴のお気に入り音源10選』)

ミュージシャンの耳をも魅了するビートたけしの「CITY BIRD」は、発表から40年が経とうとする今も、色褪せぬ輝きを放っている。

「CITY BIRD」に心を動かされたのは、もちろん音楽関係者だけではない。この曲は日本の音楽ファンからも、カラオケやライブで人気を博していたようだ。また、たけしが自身のライブで「CITY BIRD」をピアノ弾き語りで歌唱していたことがファンのSNSへの投稿で判明している。

「CITY BIRD」の評価は、さらにその翼を大きく伸ばして海を超えた。この曲は意外にも日本のお隣、中国で人気が拡がり始めている。

海外にも飛び火。中国で人気の「CITY BIRD(城市之鸟)」

近年、中国版ツイッター「微博」(ウェイボー)では、たけしが歌う「CITY BIRD」の音声ファイルが多数投稿され、音楽配信サイト「网易云音乐」には、この曲に数百ものコメントがつけられている。

CITY BIRD(网易云音乐)

また、微博に投稿された「北野武电影里的孤独感混剪」(北野武映画における孤独感Mix)という動画には、全編にわたって「CITY BIRD」が使用されており、再生回数も上昇中。

「北野武电影里的孤独感混剪」

投稿されたコメントは「この曲好き」「寂しい時にこの曲を聞きます」「本当にいい音楽だと思いませんか?」と、どれも好意的だ。

また上海発の動画メディア「一条Yit」は2018年7月、たけしへの単独インタビュー動画をYouTubeに公開。動画のエンディングBGMに「CITY BIRD」を使用した。その中で、たけし本人へ同曲を流すことを説明すると、たけし自身が「CITY BIRD」について語り出す場面が登場する。

「…あ、CITY BIRD? すごい恥ずかしいですね。それ、すごい下手なんだもん(笑)。非常に恥ずかしい、汗が出てくる(笑)。(今も歌いますか?)たまにライブで歌を歌うけど、この歌はほとんど歌ったことないよね。難しくて(笑)」(出典:「71歲的北野武,活出了牛逼的一生」上海発動画チャンネル「一条Yit」YouTubeより)

音楽関係者らに絶賛される一方で、たけし自身は「下手で恥ずかしい」と謙遜する。

この動画についても、「北野武さんのインタビュー直後のBGMがこの曲で、あっという間に魅了されてしまいました」と、たけし映画と彼の人生とを重ね合わせたかような歌詞や映像に、国内外から称賛の声が多く寄せられている。

“人生の 街角を

迷い続けて 来たけど

少年の 昔に見た

夢だけは 今も心に燃える

 

いつか 時は流れ

街並も 変わったけど

まだオレを 呼び続ける

空は 青くまぶしい”

 

(ビートたけし「CITY BIRD」 作詞:滝沢洋一・山川啓介)

お笑い芸人として修行を積み、漫才コンビ「ツービート」で大ブレイクした後も、事件や事故を経験するなど波瀾万丈の人生を送りながら、監督した映画作品によって「世界の北野」として大きく飛躍した、北野武=ビートたけし。

その活躍を予見するかのような歌詞と、大人の色気漂うブルージーな歌声が、国を超えて多くの人々の心に響いたのかもしれない。

音楽ライター・編集者が選ぶ、滝沢洋一が遺した名曲10撰

滝沢作品の名曲は、ビートたけしの「CITY BIRD」だけにとどまらない。滝沢は前述の通り1977年前後より作曲家活動を開始し、ブレッド&バター、サーカス、ハイ・ファイ・セット、小泉今日子、松本伊代、岩崎宏美、西城秀樹、石川秀美、山下久美子、富田靖子、小室みつ子、伊東ゆかり、いしだあゆみなどの名だたるアーティストたちに100曲以上を提供した。

これら数多くある提供曲の中でも「傑作」と言っても過言ではない楽曲について、滝沢作品を愛する音楽ライター、編集者諸氏に2曲づつをセレクトしていただいた。

『レオニズの彼方に』CD化を実現させた音楽ライター・金澤寿和氏のオススメする2曲

● ハイ・ファイ・セット/メモランダム(1977)

自分が滝沢さんをソングライターとして意識するようになったキッカケの1曲

作詞:なかにし礼
作曲:滝沢洋一
編曲:ボブ・アルシバー
アルバム『ダイアリー』(1977)所収

● 須藤薫/真夜中の主人公(1983)

好盤『DROPS』のスタートを飾った都市型AORチューン。キラキラしてます

作詞:田口俊
作曲:滝沢洋一
編曲:松任谷正隆
アルバム『DROPS』(1983)所収

「CITY BIRD」に光をあてた音楽ライター・編集者、松永良平氏のオススメする2曲

● 滝沢洋一/HIGH UP TO THE SKY(1978)

『レオニズの彼方に』は全曲素晴らしいです。日本のブライアン・エリオットだと思います

作詞:竜真知子
作曲:滝沢洋一
編曲:佐藤博
アルバム『レオニズの彼方に』(1978)所収

● サーカス/六月の花嫁(1979)

サーカス+滝沢洋一だと「OUR WINTER VACATION」も好きです。季節柄でこちらを

作詞:山川啓介
作曲:滝沢洋一
編曲:鈴木茂
アルバム『ニュー・ホライズン』(1979)所収

「滝沢洋一全作曲リスト」をネットに公開したT氏のオススメする2曲

● ブレッド&バター/一枚の絵(1981)

各種ベスト盤にもほぼ収録されていない、湘南3部作の3作目『Pacific』の最後を飾る晩夏の感涙曲

作詞:山上路夫
作曲:滝沢洋一
編曲:井上鑑
アルバム『Pacific』(1981)所収

● 清野由美/YOU&I(1981)

チャカ・カーンへのリスペクトが見えた滝沢&新川コンビの傑作。これぞ“オトナの音”という感じがします

作詞:日暮真三
作曲:滝沢洋一
編曲:新川博
アルバム『NATURAL WOMAN』(1981)所収

MAG2NEWS編集部「g」がオススメする2曲

● いしだあゆみ/BLIZZARD(1981)

呉田軽穂ことユーミンの作詞ですが、あの「BLIZZARD」とは別曲です。しっとり感のある素敵な楽曲

作詞:呉田軽穂(松任谷由実)
作曲:滝沢洋一
編曲:篠原信彦
アルバム『いしだあゆみ』(1981)所収

● 西城秀樹かぎりなき夏(1984)

未発表ソロをヒデキに提供したメロウな一曲。同じくヒデキの「青になれ」(1987)とどっちにしようか迷いました

作詞:ありそのみ
作曲:滝沢洋一
編曲:新川博
アルバム『GENTLE・A MAN』(1984)所収

本稿の筆者がオススメする2曲

サーカスマイアミ・ドリーミング(1980)

ママス&パパスの名曲を想わせる旧き佳きアメリカへの憧憬あふれる意欲作。滝沢さんのセルフカバー版あり

作詞:山川啓介
作曲:滝沢洋一
編曲:マイク・マイニエリ
アルバム『ワンダフル・ミュージック』(1980)所収

● 伊東ゆかり/わかれ道(1984)

「メモランダム」以来の、なかにし礼&滝沢コンビによる演歌の最高傑作。大村憲司の編曲に感動しました

作詞:なかにし礼
作曲:滝沢洋一
編曲:大村憲司・国吉良一
アルバム『fado』(1984)所収

滝沢洋一プレイリストが無料公開中

今回取り上げた10曲以外にも名曲は数多い。その他の滝沢作品については、スポティファイ上のプレイリスト「Japan CityPop 滝沢洋一作品集 Yoichi Takizawa works 1977-」で公開されている。 現時点でサブスクが解禁されている滝沢の全作曲作品を無料で聴くことが可能だ。

また、サブスクが解禁されていない楽曲を含む全52曲を網羅した、YouTubeプレイリスト「滝沢洋一 作品集 Yoichi Takizawa song book」も公開されている。

● 滝沢洋一 作品集 Yoichi Takizawa song book(YouTubeプレイリスト)

さらに、ネットユーザーT氏が作成した「滝沢洋一全作曲リスト」が、2021年3月にネット上で無料公開された。ソロ作品から提供作品まで、わかりやすくまとめられており大変興味深い。まだまだ世の中に知られていない滝沢作品を聴くための良いガイドとなるだろう。

● 滝沢洋一 全作曲リスト(Googleスプレッドシート、閲覧のみ)

長女が語る父・滝沢洋一の生い立ちと素顔、そして晩年

シンガー・ソングライター時代の滝沢については、元バックバンドメンバーらの証言によって、その輪郭がはっきりしてきた。しかし、そもそもの生い立ちや音楽を始めるきっかけ、そして晩年の様子については、ミュージシャン仲間たちでさえ、ほとんど分からないようだ。

そこで現在、2児の母として子育てに奔走しながら「睦月えみる」という名前で歌唱指導の講師をしているという、滝沢のご長女にSNSを通じて連絡を取ったところ、インタビューをご快諾いただいた。指定された待ち合わせ場所は、東京・世田谷区下北沢。

「父といえば、しょっちゅう下北沢でした。何度か父と訪れたことのある、昔ながらのケーキ屋さんではいかがでしょうか?」

小田急・京王井の頭線「下北沢」駅から徒歩5分、指定された「カフェ ZAC(ザック)」は、大阪万博が開催された1970年開店の珈琲と洋菓子が美味しいと評判の喫茶店。中の雰囲気も、どことなく『レオニズの彼方に』が発売された1978年頃の雰囲気を残している。

下北沢「カフェ ZAC」

そんな店内奥のソファに、えみるさんは春休み中だった9歳の長男とともに待っていた。よく笑う明るいその女性は、レコードジャケットの写真でしか見たことのない滝沢の顔に何となく似ているように思われた。

長女の睦月えみるさん。父の好きだった東京・下北沢にて


外交官の父に着いて世界各国を転々とした幼少期

──本日は、このような機会を与えていただきましてありがとうございます。お父様である滝沢洋一さんの生い立ちと素顔、そして晩年のご様子などについていろいろとお話をお伺いさせていただきたいと思っています。滝沢さんのセカンド・シングル『マイアミ・ドリーミング』(1980)に書かれていたプロフィールによると、1950年3月9日にアメリカ・オレゴン州ポートランド生まれ、とありました。これは本当でしょうか?

睦月:はい。父のお父さん、私の祖父が外務省の外交官だった関係で海外生活が多かったんですよ。ただ、父が生まれたのは日本だったらしく、生後間もなく母親に連れられてアメリカに帰ったそうなんです。

米オレゴン州ポートランド在住時代の滝沢と外交官だった父

その後も、イランのアメリカンスクールに4年通ったり、いろいろな国と日本を行ったり来たりしていたそうで、日本に定住するようになったのは、小学5年生くらい(1961年頃)だったと聞いています。

イランの首都テヘラン在住時に通っていたアメリカンスクールのアルバムより。前列左から3人目が滝沢

住んでいたのは、東京の世田谷区とか杉並区とか、その後もずっとその辺りに住んでいました。

──アメリカだけでなく、海外と日本を行ったり来たりされていたんですね。日本に定住された頃は、まだ昭和30年代で日本も貧しい時代でした。

睦月:その頃、日本の小学生といえば、ランニングシャツに短パンという感じだったじゃないですか。ところが、外国から帰ってきた父は長ズボン穿いて、それなりに良い身なりだったので、今では普通の格好なんでしょうけど、ガキ大将的な子に「何だ、お前!」と、よくいじめられたそうです(笑)。父は小柄な上に3月生まれだったので、同じ学年の子たちの中でも小さくて、余計に生意気に見えたんでしょうね。大人になってからも身長は160cmしかありませんでした。

日本と海外を行き来していた滝沢一家。左から母、弟、滝沢、父

あと、海外で日本人学校に通って日本人の先生から勉強を習っていたそうなんですが、漢字の読み書きが苦手だったみたいです。普段は使わないし、目にもしないですし。だから、漢字が分からないという劣等感は、その後もずっと引きずっていたようですね。

──先ほどのシングル『マイアミ・ドリーミング』に書かれていたプロフィールによると、「ポピュラー(音楽)好きの父親に着いての海外生活で得た洋楽センス溢れる曲作りと、さわやかなVocalが特長」とありました。やはり、どこか垢抜けた楽曲のセンスは、海外生活で身についたものだったのかもしれませんね。

滝沢のセカンド・シングル『マイアミ・ドリーミング』(1980)

睦月:ただ、父が一番影響を受けたのは、スティービー・ワンダーとビートルズだったと思うんですよ。王道ではあるんですけど(笑)。特にスティービーは自分と同い年ということもあってか親近感を持っていて、私も昔から「スティービーを聴け」ってよく言われて聴かされていました。

スキーのインストラクターだった過去。音楽を始めるきっかけは「病気」

──そういえば、滝沢さんのバックバンド「マジカル・シティー」のメンバーも、滝沢さんはスティービーのコード進行に影響を受けていたとおっしゃっていました。では、音楽を始められたのは、いつ頃だったのでしょうか?

睦月:高校生の頃はバンドを組んでいたみたいなんですが、音楽家になるつもりはまったくなかったようです。

ギター片手に歌唱する玉川学園高等部時代の滝沢(60年代後半頃)

実は大学時代、スキーにハマってスキーのインストラクターをやっていたんですよ。雪山の喫茶店に住み込みでアルバイトしながら、インストラクターの資格を取ったんですけど、その頃に身体を壊してしまって、スキーを諦めざるを得なくなったんです。

スキーのインストラクターを始めた頃

その病気が亡くなった原因でもあるんですけど、B型肝炎ウイルスの「キャリア」だったので肝臓が悪かったんですね。インストラクターをやっていた頃に体調が悪くなって、入退院を繰り返していたそうです。

そのときに、入院中でやることも無いし退屈だからと曲を書き貯めていたらしく、それを聴いた友達が「これ、良いからレコード会社持って行くよ」と言ってくれたそうなんです。

──シンガー・ソングライター滝沢洋一の誕生ですね。まさか入院中の病室の中がきっかけだったとは思いませんでした。では、そのとき身体を壊して入院していなければ、スキーを続けていたんでしょうね。

睦月:実は、うちの母とは病院で知り合っているんです。母は喘息がひどくて入院していました。当時も今も、入院している患者さんって、お年寄りが多いじゃないですか。だからお互いに目立ったらしくて。母と父は8歳離れているんですけど、母は当時まだ高校生だったんですよ(笑)。他に若い人はいないし、そこで仲良くなったそうです。父がスキーを続けていたら、私も生まれていなかったということですね。

──病院が取り持った縁が、音楽活動と奥様との出会いだったんですね。

睦月:本人としては、音楽で食べていくつもりはなかったんだと思いますよ。あくまで趣味として音楽をやっていただけだったようです。

娘のCDを捨てて口論も。怒ると怖かった父・洋一

──とても抽象的な質問になってしまうのですが、滝沢さんはどんなお父さんでしたか?

睦月:仲が良くて本当に可愛がってもらっていたし、私は完全にお父さん子でしたね。弟は男同士だから私とは違う目線なのかもしれないんですが、優しくて大好きでした。

ただ、怒ったときは物凄く怖くて。うちの息子が私を怖いって言うんですけど、その100倍くらい怖かった(笑)。「勉強しろ」とかそういうことは全然言わなくて、ボーッとしてると怒るんですよ。何も考えずに生きているような感じだと「もっと一所懸命いろいろなことを頑張れ!」とか。

一度、とても頭にきたことがあったんですよ。私が中学生くらいのとき、結構ハマった音楽性があったんです。それが自分のやっている音楽とはかけ離れていたから、父にとってはとても腹立たしかったみたいなんですね。

ずっとガマンしていたんだと思うんですが、私があまりにもそっちに陶酔していたので、ある時「ふざけんじゃねぇ!」と激怒したんです。

私もその頃から作曲をし始めたりしていたんですけど、音楽性は父からの影響はまったく無いものでした。父としては自分で教えて私と一緒にやりたかったから、寂しかったんじゃないかなと思うんですよね。

父・洋一と自宅で(90年代後半頃)

私も頭にきて「別にパパのために曲を書いてる訳じゃ無いし!」とか「うぜぇ」みたいなことを言っていたら、父がガチギレして、私の大事にしていたCDを全部ゴミ袋に入れだしたんですよ、「ふざけんじゃねぇ」とか言いながら(笑)。

お父さん子の私もさすがに怒りましたよ、お小遣いを貯めて少しづつ買ったものだし。これには母も味方してくれると思っていたんですが、母からは「パパの言うことを聞きなさい」って言われまして「はぁ?信じらんない!」って。それから父とは1週間くらい口をきかなかったですね。今思えば、父から曲作りを習っておけば良かったなと思うこともありますけど、親子って難しいですよね。お互い素直になれないし、遠慮なく言いたい放題になりますから。

──お父様には、音楽について自負のようなものがあって、そこは譲れなかったのかもしれないですね。

ピザ屋さん経営の過去も。音楽制作会社を立ち上げ若手の育成に貢献

睦月私も大学に入ってから軽音楽部でバンド活動を始めたんです。自分で曲を作って歌ったりして、学園祭に出たときには父が見に来てくれました。そのときに、バンド仲間が私そっちのけで父にいろいろ質問していました。「自分の作った曲、聴いてください!」とか(笑)。

当時、父は音楽制作会社を自分で経営していまして、若いミュージシャンを育成してデビューさせるようなことを仕事にしていたんです。

──ということは、その仕事と平行して作曲もされていたということでしょうか?

睦月:その辺りが不思議なんですけど、私が物心ついたときには父が作曲家だったとは知らなくて。曲を作っていたことも歌っていたことも知らなかったんです。父はいろいろな仕事をしていたんですよ、音楽をぱったり辞めてピザ屋さんを経営したりとか(笑)。ピザ屋さんだったときの記憶はありますね。

美術部出身の滝沢が自ら絵筆をとって描いたという、自身が経営していたピザ屋「エイミーズ」のチラシ

──そういえば、元バンドメンバーの伊藤広規さんも「昔、滝沢さんに会ったとき、その頃ピザ屋さんやってて繁盛してた」と言っていました。滝沢さんは、店舗を増やしても固定費がかかるからあまり儲けが変わらないと言っていたそうです(笑)。

ピザ屋を経営し始めた当時(80年代)

睦月:いろいろな仕事を始めては辞めての繰り返しで、10年くらいそんな感じでしたね。

私が中学生くらいのときだから95、6年ですが、その音楽制作会社を経営し始めたんです。若手のミュージシャンたちを集めてプロデュースして、伝手のあるレコード会社に売り込むようなことを主にやっていました。

ただ、父が亡くなる2年くらい前に、ある事業が原因で会社の経営が厳しくなって、「何か他のこと始めないとなぁ」と言っていた矢先に、前から患っていた肝臓の調子が悪くなってきたんです。

病院ぎらいで見逃された「肝臓ガン」、早すぎた死

──若い頃に入院し、音楽を始めるきっかけになった肝臓が、ここにきて悪くなってしまったんですね。

睦月:父はとにかく病院が嫌いでした。実は、父の病気って今の医療では治せるんですよ。だからアンテナを張っておけば治せたんでしょうけど、母にも「父を病院に行かせて」と強く言っておけば良かったと今でも後悔しています。しばらく放置していたら、もう肝臓ガンがかなり大きくなっていて、手術して取ったんですが、回復はしませんでした。

──当時、まだ56歳とお若かったですよね。

睦月:まさか亡くなるとは思わなかったですね。何年も闘病していた訳ではなくて、亡くなる半年くらい前にガンのことが分かって、それからはあっと言う間でした。術後の経過が悪かったので、もしかすると、そのガン切除の手術が良くなかったのかもしれません。

──その頃はご実家で一緒にお住まいだったんですか?

睦月:一緒に住んでいたんですが、ちょうど私が結婚しようとしていた時だったんです。ただ、父の体調が回復しないから結婚式は一旦保留にしようということになりまして、結婚式場も予約していたんですが、9月に延期しました。6月に挙式の予定だったんですが、父は2006年4月20日に亡くなりました。もう15年も前になります。

──奥様に出会ったのも病院、音楽を始めることになったのも病院、そして亡くなった原因もその病気だったと。そう考えますと、何とも複雑な気持ちになります。

睦月:20代のはじめに病気が発症したとき、入退院を繰り返して、いろいろな検査をさせられたので、病院が嫌いになってしまったんだと思います。でも、そのことでガンの発見が遅れたのは確かですね。

──いま生きていらしていれば71歳です。お孫さんが娘に2人、息子に2人、あわせて4人もできたこともご存知ないわけですよね。

睦月:きっと生きていれば可愛がったと思うんですよ。夫も、父が亡くなる直前に結婚の挨拶ができたんですが、私がCDを捨てられた話を聞いていたから父に会うのを怖がっていました(笑)。すでに調子が悪かったので、「どこの馬の骨だ」みたいなこともなく無事に挨拶は終わったんですけど。亡くなる少し前に父が話していたのは、私の夫と「二人だけでどこかで一泊して一晩語り合いたかったなぁ」と。でも、まさか自分が死ぬとは思っていなかったと思います。 

家族には、お医者さんから「あと二週間もつかどうか」と告知されたんですが、結局はそれから一週間ほどで亡くなりました。私はもう辛すぎて、亡くなる直前は母に任せてしまって、あまり一緒には居られなかったですね。それまでは毎日、病院に行っていたんですけど。

──娘の結婚と出産も見届けられないまま、旅立たれて行かれたんですね。作曲の世界に戻る可能性もありましたし、幅広い分野でご活躍するかもしれなかっただけに、作曲家・滝沢洋一のファンとして、56歳でのご逝去は大変悔やまれます。

睦月:そうですね、幅広い分野といえば、父は生前『水滸伝・天命の誓い』(1989)というKOEIのゲーム音楽も手掛けていました(「夢、いつの日か…(Dreams Come True!)」)。今もファンの方からご連絡をいただくことがあります。

その頃に手掛けた曲で、『水滸伝〜』と似たような曲調のものとして、変わった作曲作品があるんです。それは、私の通っていた小学校の下校時の音楽。当時の先生が父に依頼したらしく、「全然いいよ」と曲を書いたそうです。下校のときは父の作曲した音楽が流れていたので誇らしかったですね(笑)。父が打ち込みで作ったインストです。

──ちなみに、どこの小学校でしょうか?

睦月:東京の世田谷区立松原小学校です。今はもう使用していないと思いますが、当時の音源が残っているかどうかも分からないですね。私が在校中は、下校のとき普通に流れていました。1994年頃だったと思います。

──それは貴重なレア音源ですね(笑)。滝沢洋一全作曲リストに加えていただかないといけませんね。では、肝臓が悪かったということは、お酒は呑まかったのでしょうか?

睦月:まったく呑みませんでした、その代わりにヘビースモーカーでした。お酒自体、呑んでいるのを見たことがないですね。

クリスマスに家族と。最期までタバコは辞めなかったという

今では子供が買ってはダメですけど、よく「タバコ買ってきて」と頼まれて弟と一緒にお使いをしました。ある時、いつものように弟とタバコを買いに行ってきた帰りに、住んでいたマンションの7階で一人暮らしのおばあさんの部屋からドーン!という音がして炎が出たんです。父がその音に気づいて、急いで階段を駆け上がって、おばあさんを救出したことがありました。私と弟は子供だったので、炎は出ているし黒煙は上がっているし、どうしようどうしようって言っていたら、おばあさんを抱えた父が降りてきて、レスキューの人に引き渡したんですね。父がまだ40歳になる前だから、1988年頃だったと思います。

──勇敢なお父様だったんですね。滝沢さんには、1982年に発売延期となったまま未だに発売されていない『BOY』という幻のセカンド・アルバムがあるそうですが、その1曲目に入るはずだった曲名が「悲しきファイアーマン」です。まさに、その歌のタイトルを地で行く感じのエピソードですね。

滝沢のラスト・シングル『サンデーパーク』(1982)の歌詞カードに印刷されていた、セカンド・アルバム発売のお知らせ。一曲目に「悲しきファイアーマン」の文字が見える。このアルバムは未だに発売されていない

睦月:その幻のセカンド・アルバム『BOY』のことをよく聞かれるんですが、実家には普通に音源がありましたよ。我が家では普通に流れていました(笑)。「悲しきファイアーマン」も面白い臨場感のある曲です。

──えっ、音源がお手元にあったんですか? てっきりお蔵入りになったまま行方不明になったアルバムだとばかり思っていました。

睦月:はい、普通にあるんですよ。カセットなのか何なのかは分からないんですが、我が家では『レオニズの彼方に』より好評でしたし、私はこっちの方が好きですよ(笑)。どうにかお披露目出来ないかなと思っているんです。

そのアルバムの中に「一枚の写真」という曲があるんですが、その曲が一番好きで、これのカラオケ・ヴァージョンに父と私が二人で歌を吹き込んだものが今も残っているんです。もし、このアルバムを発表できる機会があれば、それは母も望んでいると思います。父の名誉のためにも、ぜひCDなり配信なりで世の中に出せたらと。

──これが世に出たら、お父様の供養にもなりますよね。

睦月:本当にそうですね、参加してくださったミュージシャンの方々のためにも、これは皆さんに聴いていただきたいですね。

──山下達郎さんが前にラジオで話されていましたが、「曲に罪は無い」んですよね。大人の事情で発売されなかったとしても、人間関係のトラブルがあったとしても、曲に罪はありませんので。これは是非とも公表できるよう私もご協力させていただきます。

睦月:ありがとうございます、皆さんに聴いていただければ、父も浮かばれると思います。

──では、最後に質問させてください。お父様が自分自身の音楽性について生前お話しされたことはありましたでしょうか?

睦月:有名な歌手の方たちに曲を書いていたのは、私が生まれる前後の話なので、ほとんど記憶がないですね。ただ、父としては劣等感があったんだと思います。今でこそ、こうして聴いてくださる方がいらっしゃいますけど、自分の曲は売れなかった、世の中に求められていなかったんだ、と。だから、あまりおおっぴらに言ったりしませんでしたし、「売れっ子作曲家ではない」という劣等感はあったんだと思いますね。

今考えたら、あれだけの数の楽曲を作れているんだから、一曲も世に出なかった人に比べたら売れていないわけではないとは思うんですが(笑)。

ハイ・ファイ・セット『メモランダム』(1977)の作曲で、東芝EMIから贈られた「ヒット賞」のゴールドディスク

時代的な流行りとは違ったのかなとは思いますし、それは父本人も言っていました。自分に才能がないのではなく、「時代に合っていない」んだと。タイミングって難しいですよね。

なので、自分が作曲家だということに誇りを持っていなかったんじゃないかな、とは思いますね。自分の感覚と、世の中の評価がかけ離れていましたから。だから、私にもあまり過去の作品の話を言わなかったんだと思います。

──シンガー・ソングライター、作曲家だった自分に誇りを持っていなかったというお話は意外でした。もし今、幻のセカンド・アルバムが世に出たら、お父様も天国で喜んでくれるかもしれませんね。本日は貴重なお話をいろいろとありがとうございました。


インタビューが終わり、しばらくしてから、えみるさんの弟であるご長男が喫茶店に到着。そして、未発表アルバム『BOY』の完成度がいかに高いかを力説し、同じく「一枚の写真」という曲が一番好きだと話した。

そこで、父との思い出の地・下北沢の街中でご長女、ご長男、お孫さんの3人で「一枚の写真」を撮らせていただいた。

父・洋一の思い出が詰まった下北沢で

父は、大きく成長した子供たちや孫を天国からどんな顔で見守っているのだろうか。そして、今も父の楽曲に耳を傾け、その魅力を語る子供たちをどう想うのだろうか。

約40年も発売延期になったまま。幻のセカンド・アルバム『BOY』CD化への道

前項のご長女へのインタビュー内にも登場した、幻のセカンド・アルバム『BOY』。

1982年7月25日の発売が事前に予告されながら、諸事情で延期となり、現在も未発売のままとなっている。

その存在は、滝沢のラスト・シングル『サンデーパーク』(1982年6月25日発売)の歌詞カードに小さく出ていた「アルバム発売のお知らせ」で判明した。『BOY』は、このラスト・シングルが出た1カ月後には店頭に並ぶはずだった。

滝沢のラスト・シングル『サンデーパーク』(1982)

ご遺族の話によると、1982年の頭に日本初のリゾートスタジオとして有名な「伊豆スタジオ」(静岡県伊東市)にて、滝沢や参加ミュージシャン、発売元のワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の担当ディレクター、エンジニアらとともに泊まり込みでレコーディング合宿を敢行し、約10日間ほどかけて完成させたという。

しかし、発売直前に行われた社内の販売会議の選考に漏れ、担当者の転職などの諸事情も重なって、『BOY』は幻のアルバムになってしまった。

『BOY』レコーディングが行われた「伊豆スタジオ」。滝沢の自宅に全員集合し、カレーを食べてから車で伊豆へ向かったという

伊豆スタジオ『BOY』レコーディング合宿の様子。右側で酒瓶を持っておどけているのが滝沢。中央の茶色いメガネの男性がアレンジ担当の徳武弘文氏

伊豆スタジオにてシンセの名機『プロフェット5』を操作する滝沢


現存していた幻のマルチマスター・テープ

このアルバムのマスター音源は、現在どうなっているのだろうか。そして、この音源をいまCD化することは可能なのだろうか。名盤『レオニズの彼方に』の初CD化に尽力した金澤寿和氏にお聞きしたところ、意外なご回答があった。

幻のセカンド・アルバム『BOY』に関しては、自分もずいぶん前に滝沢さんのご遺族からメールを頂戴し、やりとりしたことがあります。

『レオニズ〜』が出た後、実はCD化に向けて動いていた方がいらしたんです。現在もいろいろなアナログ音源の復刻に尽力されている方です。

すぐに彼とコンタクトを取ってみましたが、『BOY』のマルチマスター・テープの存在、レーベルコピーはもう確認できているそうです。

ところが、その後に制作した記録のある2chミックスのマスター・テープが保存されていないようです。

なんと、マルチマスター・テープは現存しているという。しかし、そこからミックスダウンしたマスター・テープが行方不明のまま。ミックスダウンには手間も資金もかかるため、商品化にはそのミックス済のテープが必要となる。

後日、ご遺族にこの件をお尋ねすると、「テープを見たことは無いが、ミックスダウンを終えたマスターからダビングした音源と思われるデータが、滝沢のPCに残っている」という。そのデータは今も現存し、ご長女が家族で聴いていたと語っていたのは、この音源データであった。

立ちはだかる壁と差し込んだ希望の光

このデータから、幻のセカンド・アルバムをCD化することは可能なのか。ご遺族から音源データを受け取ると、さっそく金澤氏を介してワーナーで社外プロデューサーをされているという方へご連絡を入れた。

「この音源データでCD化は可能でしょうか?」

ワーナーミュージック・ジャパン・インターナショナル・ストラテジック邦楽部門の小澤芳一(おざわ・よしかず)氏は、今まで数多くの名盤のCD復刻に尽力されてきた人物だ。2年ほど前に滝沢の『BOY』のCD化に向けて、マスター・テープの所在確認や権利関係の調査を進めていたという。その小澤氏からの回答は以下ようなものだった。

「おそらく2chミックス・テープからカセットに落としたものだと思いますが、ヒスノイズが目立ち、このままではCDマスターにはなりません」

しかし、このミックス音源を参考にしながら、現存するマルチマスター・テープからミックスダウンをし直すことは可能だという。

マルチマスターは4本あり、これをすべてミックスダウンしたとして、マスタリングをかける費用を含めてもそう高くは無い金額でCD用のマスター音源は作れるそうだ。

問題は、アルバム発売の「権利関係」。82年当時、発売が延期された後に販売権が別のレコード会社に移っていないか、お蔵入りになった原因がCD化に支障をきたすことは無いか……など、状況を詳しく知る当時の担当者に確認する必要がある。

この件について現在、金澤氏、小澤氏ら多くの音楽関係者が奔走し、CD化および配信化に向けて動き始めている。

滝沢家に保存されていた『BOY』のジャケットデザイン

ご遺族が長年ずっと願い続けてきたセカンド・アルバムの発売実現まで「あと一歩」まで来た。本来の発売日である1982年7月25日から、来年の7月で丸40年。32歳の滝沢がシンガー・ソングライターとして全精力を傾けて作り上げたセカンド・アルバム『BOY』は、少年時代の海外生活の記憶や夢をいっぱい詰め込んだまま、再び海を超えようとしている。

エピローグ〜空高く翔ける、“もう一つの「CITY BIRD」”

ビートたけし歌唱の「CITY BIRD」には当時、“もう一つの「シティーバード」”が存在していた。

1982年発売の滝沢のラスト・シングル『サンデーパーク』B面に収録された曲、その名は「シティーバード」。発売は、たけしのアルバム『おれに歌わせろ』のわずか4日後、1982年6月25日である。

そう、実は「CITY BIRD」という歌は、ビートたけしと滝沢がほぼ同時に発表した「競作」であった。そして、この作品は発売が延期されたままの幻のセカンド・アルバム『BOY』にも収録が予定されていた。

滝沢が歌う「シティーバード」は2015年、初CD化された『レオニズの彼方に』のボーナストラックとして収録され、33年ぶりに日の目を見たのである。

その後、ビートたけしはTVタレントとして、映画監督・北野武として、さらに日本を代表するアーティストの一人として活躍し、いまも国内外の“大空”を忙しそうに飛び続けている。

そして世界的「シティ・ポップ」ブームの中、作曲家・滝沢洋一もまた、死後15年の時を経て、彼の遺した名曲の数々を翼にのせて高い青空を見上げている。

夢を抱きしめて飛び立つ“都会の鳥”

命日近くのある晴れた日曜日。都内某所にて、ご遺族とともに滝沢の墓参に同行させていただいた。彼は今、自身の一年後に亡くなった愛猫とともに静かな丘の上で眠っている。

その墓石には「滝沢家」や「先祖代々之墓」のような文字は見当たらず、生前の趣味だったテニスのボールとラケットの絵、そしてこの言葉だけが刻まれていた。

 

“CITY BIRD” rests wings…peaceful.

“シティーバード” 羽を休めて…安らかに

 

 

滝沢にとって特別な意味を持つ楽曲、そして自分自身を表す言葉、“CITY BIRD”。

妻は、彼の眠る墓石に刻む文字として迷うことなく、この言葉を選んだ。

そして、生前に彼が「時代に合わない」と語っていた多くの楽曲は今、ここにきて大きく羽ばたき始めている。

空高く翔ける“都会の鳥”は、羽を休めるどころか、ようやく宇宙の果てに向かって飛び始めたのかもしれない。

あの高く遠い「レオニズ」の彼方に向かって。

 

“Yes I live in Tokyo

空見上げ 語った夢

抱きしめて飛び立つのさ

いつか高く 遠く”

 

(滝沢洋一「シティーバード」 作詞:滝沢洋一・山川啓介) 

 

 

 

取材協力
睦月えみる
伊藤広規
新川博
牧野元昭
荒木くり子(伊藤広規office)
金澤寿和
松永良平
小澤芳一
T氏
(順不同、敬称略)

Special thanks to
滝沢家のみなさま

 

本稿を偉大なる音楽家、“CITY BIRD” 滝沢洋一氏に捧ぐ

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