「最期は日本人として死にたい」日本国籍を奪われた台湾人の深い悲しみ

 

じつは元日本人の台湾人が日本国籍の確認を求めた訴訟は、1960年代にもありました。15歳で学徒兵になった過去を持つ林景明氏が、日本国籍であることの確認を求めて訴訟を起こしたのです。戦後、突然、日本人ではないとされ、中華民国という縁もゆかりもない、しかも台湾人を弾圧する独裁国の国民にさせられたことへの不満でした。林景明氏は、台湾独立運動家でもありました。

当時、私は早稲田大学の生徒でしたが、学内をはじめ新宿、渋谷の街頭などでも、この訴訟に対する署名運動を行い、東京地裁も高裁も傍聴しました。このときも世界人権宣言が根拠とされていましたが、しかし、いずれも敗訴。林景明氏は日本から強制送還されることとなり、九洲の大村収容所に送られました。私たちは書籍を集めて、収容所のなかで勉強するように勧めました。

かつて日清戦争後に日本に割譲された台湾でも、人々の国籍問題を確認する必要に迫られました。ところが、清の国籍を持ちたいと望んだのはたったの5,000人だけでした。当時の日本政府は、これらの人々を強制送還することなく、「華僑」として取り扱いました。そして残りの台湾人をすべて日本人として扱ったのです。このことが台湾人の国籍問題の原点なのです。

このように、日本時代を知る台湾人は、いまでも「日本人でいたかった」「日本人になりたい」という人が少なくありません。とくに国民党の時代を経てきただけに、多くの辛い思いをしてきました。それだけに、日本に対する思慕の情も強いのです。

戦後、日本にGHQが進駐してきたように、台湾も日本同様の敗戦国として、マッカーサーの第一号命令により、中華民国の国民党軍が進駐してきました。国民党軍は中国や韓国以上に反日教育を行いましたが、学生たちが家に帰ると、その反日教育を親たちが是正するメカニズムがありました。それが反日に染まらなかった一因でもあります。

また、九洲と沖縄とも共通の縄文文化圏であったことや、日本も台湾も島国であることで、大陸や半島国家とは異なり、非常に親和性があることも、日台がきわめて相思相愛であることの一因でしょう。

ここが、同じ日本統治を受けたにもかかわらず、いつまでも日本叩きと恨み言を続けている韓国と全く異なるところです。韓国では旧日本軍に協力した者は売国奴扱いであり、日本時代に導入された事柄をすべて消し去ろうという「日帝残滓精算」を進めていることはよく知られています。

台湾人が全く異なるメンタリティであることは言うまでもありません。世界一の親日国であることを、自認すると同時に誇りにしているのです。

とくに、戦争時代に日本人として働いたことの誇りについては、「台湾少年工」の話が有名です。このメルマガでも何度か取り上げましたが、戦争末期に、名古屋や群馬の戦闘機工場などへ働きに出てきた台湾人少年工たちのことです。

彼らは、筆記試験や身体検査で厳しく選抜され、校長と両親の許可を得て来日しました。もちろん強制的に連行されたのではなく、自分の意思で狭き門を突破してやってきたエンジニアでした。

彼らは、戦闘機「隼(はやぶさ)」や「雷電」の製造に従事した自分たちの過去に誇りを持っています。戦後、台湾の権益は中国人に独占され、最先端の技術者たちはほとんどそのハイテクを生かすことができませんでした。彼らは、「自分たちが実力を発揮できていれば、台湾の産業はもっと発展していたはずだ」というこういう自負を抱いていたのです。

今でもこの少年工たちは「高座会」という団体をつくり、数千人の会員を有しています。1994年には神奈川県大和市で大会が開かれましたが、2,000人以上の会員が来日したために交通渋滞が起こったほどでした。

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