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【起業記】大繁盛ラーメン店『町田商店』を作った男が綴る(その3) 「第1号店を開業」

『<ロードサイドのハイエナ> 井戸実のブラックメルマガ』 より抜粋

第1回第2回

オープンまでの道のり

間もなく、町田の物件を無事に契約することができました。家賃が税抜き25万円で保証金10ヵ月、礼金仲介手数料が1ヵ月ずつだったため、契約に掛かった費用は300万ちょっとでした。退職時に700万ほどの自己資金を貯めていたため、取得費用に問題はありませんでしたが、個人ということもあって与信力がなかったため、父に連帯保証人になってもらいました。他に頼める人もいなかったので、まだ定職についていた父に保証人になってもらえたのは物件取得に対して大きなプラスでした。

工事費用と厨房器機材で1200万ほどかかると言われたので、最低1000万は借入する必要がありました。借入に関してのノウハウが一切なかったため、町田の商工会議所に相談に乗ってもらうと、国民生活金融公庫(現日本政策金融公庫)で借りるといいというアドバイスをもらいました。国民生活金融公庫は、銀行に比べ国の運営ということもあって、起業の際には協力してもらいやすいということでした。アポイントを取って話を聞くと、すでに物件が取得できていることと自己資金が700万あるということで、融資できる可能性はかなり高いと言われました。自己資金というのは個人で貯めたものでないと対象にならず、人から借りたものや出資してもらったものではダメだということでした。実際10代からその時までの通帳を全て確認されたのは驚きました。

個人事業主になって2年間、法人にして2年間の消費税免除の優遇があったため、始めは個人事業主としてスタートすることにしました。創業支援助成金の手続きは自分で行い、基盤人材確保助成金に関しては手続きが大変だったため、商工会議所で紹介してもらった社会労務士さんにお願いすることにしました。

ある事情で『壱六家』での業者さんと取引ができなくなってしまったので、タウンページで製麺屋を探し、肉屋などは町の精肉店などを回り、必要な業者さんと取引ができる準備をしました。

全ての食材にこだわりたかったので、一般的に家系ラーメンはチャーシューやほうれん草は外国産を使うのですが、全て国産に限定して厳選した食材のみで勝負することにしました。

サイドメニューの餃子は業務用の冷凍餃子でどうしても妥協できなかったため、手作りにすることにしました。しかしレシピがなかったため、横浜の杉田にある『九龍坊』という餃子がピカイチの中華屋さんの店主に思い切って、

「今度町田でラーメン店をオープンさせます。ここの餃子は今まで食べた餃子の中で一番おいしいのでレシピを売って頂けませんか?」とお願いしました。

そんなことを言われたのは初めてだと困惑されましたが、25万円でそこの餃子のレシピを売ってもらえることになりました。ダメもとでも行動に移すと意外となんとかなるものだなと思いました。

融資がおりることも決定し、準備も順調に進む中、じゅんさんとどんなお店にしたいか? 将来どんな風になりたいか? などと時間さえあれば常に理想のお店や自分像を語り合っていました。

僕は、一人のお客様にも妥協を許さない、最高のラーメンを作る。そして町田で1番元気のいいお店にしよう! と想いを伝えました。

2008年、年明けと共にお店は完成しましたが、家系ラーメンの特性上、新しいガラからではすぐに美味しい味が出にくいので、2週間ほどスープの仕込み準備期間を設けました。

どうせなら『壱六家』の時に学んだ作り方は一切捨てて、新しい独自のスープを作ろうと思い、今まで使ったことのない部位のガラをたくさん集めて試食を繰り返しました。すると、自分でも驚くほどの美味しいスープが出来上がりました。

惚れ込んだ町田という町で、この最高に美味しいスープと厳選した食材、じゅんさんとの最高に元気な営業。

お店の名前は地域に愛してもらい易いよう「町田」という地名と、語尾に「家」が付く家系の定番の名を敢えて外し、暖かみを感じる「商店」を繋げて『横浜家系ラーメン町田商店』にしました。

不安材料は一切なく、100%成功すると確信の下、万全の状態でオープンを迎えることができたのです。

しかし当たり前のごとく、オープンして間もなく予期せぬ壁にぶつかることとなるのでした。

スープのコントロールに悩む日々

2008年1月、満を持して横浜家系ラーメン『町田商店』はオープンしました。長年の夢が叶った瞬間でもありました。

オープン初日は、サイレントオープンだったため、僕とじゅんさんで問題ないだろうと思い、2人で営業しましたが、11時から22時までの営業で20万の売り上げと、好調なスタートだったため、お客様に対して待たせてしまったり、提供の順番を間違えたりと満足していただけるような営業ができませんでした。

すぐにアルバイトを補充し、日に日にオペレーションも良くなっていきましたが、またすぐに問題が勃発しました。

2週間ほどたった頃、スープの味がブレ始めてしまったのです。お昼頃まではなんとか提供できる味なのですが、アイドルタイムになると決まってスープがまずくなってしまい、そうなってしまうと、どれだけ手を加えても美味しい味に直すことができませんでした。美味しくないラーメンを提供するくらいならお店を開けないほうがいいと思い、スープが悪い日はお店を開けずに何度も作り直していました。

試作の時あれだけ美味しかったスープが嘘のように、全くコントロールできなくなってしまい、同じように作ろうと思っても、二度と同じ味が出せるようになりませんでした。

日が経つにつれ、その味は悪化する一方で、オープン2ヵ月頃にはまともに1日中オープンしている日は1日もありませんでした。当然資金はどんどん減っていき、運転資金として通帳に残っていた100万は底をついてしまいました。

『壱六家』の技術を一切使わず自分の力だけで考えたスープの作り方に固執していたため、資金のことなど一切考えていませんでした。子供をおんぶしながら仕込みや掃除を手伝い、経理や雑務を何でもこなしてくれていた嫁に対しても、家に帰って当り散らしたりしてしまっていました。余裕も自信もなくなり、精神的に追い詰められていきました。

「このままだと店が潰れるよ! 意地を張らずに『壱六家』の時のやり方に戻そう!」

そうじゅんさんに説得され、1ヵ月自分のやり方でやらせてくれと死闘を尽くしましたが、結果、納得のいくスープを作ることはできず、『壱六家』の時のスープのやり方に戻すことになりました。ひと時でも自分の考えたスープの方がいいものができたため、自分の実力を過信しましたが、結局、先人の作り上げたものを超えることができなかったのです。

『壱六家』のスープの作り方に戻してからは、最高に美味しいスープとまではいかないものの、高いレベルの味が安定して出せるようになり、それからはお店を閉めることはほとんどありませんでした。

しかし、まともに営業できていなかった焦げ付きは1ヵ月遅れてやってきました。4ヵ月目のじゅんさんの給料を、お金がなくて払えなくなってしまったのです。足りないのは10万円弱だったため、一日給料を遅らせれば支払いはできましたが、それは絶対やってはいけないと思い、金策に走りました。消費者金融に駆け込むことも考えましたが、もし自分の与信を傷つけると『町田商店』の将来にも大きなマイナスを与えると思い、両親に頭を下げに行き、10万円を借りました。

借金の理由をスタッフの給料が払えないからと正直に伝えましたが、両親からすれば、オープン間もなくそんな切迫した状態なのかと心配もあったと思いますが、何も言わず見守ってもらえたことはありがたいと思いました。

その後、安定した営業のかいもあって、初月250万ほどだった売り上げも、約1年後の年末には倍の500万円まで上げられることができました。美味しいラーメンを元気に楽しく提供する。飲食業は飲食人として当たり前のことを当たり前のようにやれば結果はついてくるということを確信しました。

2号店『代々木商店』オープン

オープンから2年経ち、順調に売り上げを伸ばし続け、社員も増えていったため、次のお店を出店しようとスタッフみんなで話すようになりました。

次はもっと好立地で勝負したいと思い、エリアは町田から1時間圏内と広めに設定し、たくさんの物件から選定することにしました。エリアを広げたことと家賃上限を50万円と設定したため、魅力ある物件に巡り合う機会はしばしばあったのですが、申込書を出す度、不動産業者から同じことを言われました。町田の1号店を出す時と同じように、大家さんがことごとくラーメン屋はNGだというのです。

ある物件を申し込んだときのことです。お店でスープを作らないでどこか別のキッチンで作ったものをお店に運ぶなら契約してもいい、という条件を出してきた大家さんがいました。臭いが出てしまうのを懸念しているのであって、飲食店を運営するのは問題ないということでした。他の場所でスープを作るという概念など全くありませんでしたが、もしそれが叶ったら、今後店舗を取得するのに大きなプラスを与えてくれると思いました。

それから、町田商店のスープを同じレシピで作ってくれるスープ業者を探して回りました。意外にもそれが可能な業者がすぐに数社見つかりましたが、障害になったのは、どの業者もロットが足りないとのことでした。1、2店舗のスープを委託されて作っても、量が少なすぎて商売にならないので手伝えないということだったのです。

10店舗ほどの使用量があれば何とか成立するとのことでしたが、到底そんな店舗をいきなり出店できるわけもなく、悩んでいた時、ふと、たつさんのことが頭に浮かんだのです。

過去何件かラーメン店での勤務経験もあり、顔の広かったたつさんに相談すれば何か道が開けるかもしれないと思い、約二年ぶりに連絡を取ると、たつさんは『壱六家』を退職し、生命保険の仕事をしていました。

話を聞くと『壱六家』で、成果を出したら出した分だけ給料を払うと言われたのに対して、ほとんど給料に反映されなかったため退職し、基本給ゼロでも本当に成果の分だけお給料をもらえる完全歩合の生命保険に転職したとのことでした。たつさんはそこで、1年目から年収1000万を超える成果を出しており、やはり只者ではなかったんだなと改めて感心しました。

事情を説明し、誰か『町田商店』のスープを共有して使ってもらえるところはないかと相談すると、4社10店舗にて『町田商店』の味を気に入ってもらえて、一緒にそのスープを使ってくれることになったのです。

そしてオープンから2年半が経った2010年の8月、2号店となるJR山手線代々木駅で『代々木商店』をオープンすることができたのです。

 

information:
町田商店

第1回第2回

 

『<ロードサイドのハイエナ> 井戸実のブラックメルマガ』 より抜粋
著者/井戸実
神奈川県川崎市出身。工業高校を卒業後、寿司職人の修業を経て、数社の会社を渡り歩く。2006年7月にステーキハンバーグ&サラダバーけんを開業し同年9月に㈱エムグラントフードサービスを設立。
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