やるべきことをやらないで、先生に叱られた。友だちをいじめたり馬鹿にして喜んでいたら、先生が本気で怒った。目に余る失礼な言動や態度を取って叱られたが、無視して続けていたらついに怒られた。
これらの経験を通して、「これは社会的にまずい行為なのだ」ということを学ぶ。やるべきことはやらねばならない。人を馬鹿にしてはいけない。一度は許された失敗も、何度も繰り返すことで許されなくなる。
優しく教えて諭してわかる子どもも勿論いる。一方で、そうではない子どもも勿論いるということである。家ではOKなのに、と不満に思う子どももいるだろうが、それも学びである。
学校に限らず、親という立場もそうである。いつでも子どもを自由にして、穏やかで全く怒らない親。理想的な感じがするかもしれない。
しかし、外の社会の大人が皆そうであるかといえば、明確に「NO」である。世の中には気の短い人もいるし、ふざけた態度を取ったらどんな目に遭うかわからない。何をしても怒られることのない家庭の場合、通常以上に外の世界とのギャップに苦しむことになる。つい怒りすぎてしまって自己嫌悪に陥るのは親の常だが、人間を学ぶには丁度いいモデルであるともいえる。
やたらと私的で感情的なのは確かにダメである。以前にも書いたが、自分自身の見栄や世間体やプライドの為に怒鳴られたら堪らない。「毒親」とは嫌な言葉だが、そういうやりすぎな人が存在するのも確かである。
しかしながら、大事な子どもが人としての道を踏み外した行為に対しては、大人が怒りをもって示す必要がある。
どこで読んだか、内容含めてうろ覚えだが、次のような話がある。
運動会の騎馬戦で、ある子どもが兜を取られて負けた。競技終了後に、その子が腹いせに後ろから相手の兜をとって囃し立てたという。しかしその後、普段はとても穏やかな母親が、人前で涙を流して声を荒げて怒った。「負けたことはいい。母はお前をそのような卑怯者に育てた覚えはないぞよ」
昭和の話ではあるが、確かにこのような時こそ、大人が怒りを示すべき時である。我が子を、決して卑怯者にしてはならない。このような時にこのような行動をとる子どもに対する時は、冷静に諭してもダメである。怒りという感情を伴って叱るべき時である。(怒ると叱るは別ベクトルの話であり、同時に発露、別々に発露、両方有り得る。)その子どもは母親のその剣幕に猛省し、その後の人生では卑怯をしなくなったという。
子育ての第一義責任である親の場合と、教師の場合とでは当然その発露の仕方や場面は異なる。しかしながら、本質的な部分では同じである。