実がある
紙の手帳やノートを使うことで、スマートフォンと距離を置くことができ、またさまざまな表現の「遊び」を取り戻すことができる。
さらにそこに書き残された記述は、まぎれもなく「自分の人生」に関する記述です。お得なセールス情報でも、受け手の劣等感を煽ってくるプロモーションでも、どこのだれかともわからないビッグデータでもありません。
SNSや各種コミュニケーションツールに入り浸っていると、非常に楽しい時間を過ごせますが(≒脳が活発に反応していますが)、何が「手元」に残るかといえば、ほとんどないわけです。ただデータが生成されただけ。
それは、物(マテリアル)を通じて世界を認識することで生き延びてきた生物にとっては、虚しく感じられる行為でしょう。
もちろん、情報や知識を大きなスケールで扱うためには、そのような物性は邪魔でしかありません。そこからの開放こそが、情報や知識を扱う上での主要な課題になるはずです。
一方でそうした営みは、人の生を形成する要素ではあるものの、人の生そのものや全体ではありません。
人の生の全体は、情報や知識の扱いだけでなく、他人との(エモーショナルな)関係や自分との向き合いといったさまざまな要素で構成されているはずです。
「効率的であることが重要だから、効率の観点から見て劣るものは、自分の人生に入ってきてはいけない」という考え方は、率直に言って人の生そのものから豊かさをはぎ取るように思います。
もちろん「効率的」なものが悪いわけではありません(Googleカレンダーのリピート機能にはたいへん助けられています)。効率的なものだけで人生を満たすという「効率的」な考え方に不足がある、というだけです。
他にも、アナログのノートを使う「嬉しさ」はいくつもあるわけですが、今回はこの辺でお話をしめておきましょう。また別の機会にでも、いろいろ考えてみます。
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