なぜ日の丸半導体は衰退したのか?なぜ日本の半導体メーカーはTSMCのようになれなかったのか?“日本の国策”たるラピダスが大失敗に終わりかねない理由とは?著名エンジニアの中島聡氏が、わが国の半導体政策の問題点について解説する。(メルマガ『週刊 Life is beautiful』より)
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです
プロフィール:中島聡(なかじま・さとし)
ブロガー/起業家/ソフトウェア・エンジニア、工学修士(早稲田大学)/MBA(ワシントン大学)。NTT通信研究所/マイクロソフト日本法人/マイクロソフト本社勤務後、ソフトウェアベンチャーUIEvolution Inc.を米国シアトルで起業。現在は neu.Pen LLCでiPhone/iPadアプリの開発。
日本の半導体戦略とラピダスという砂上の楼閣
以前にも触れたことがありますが、シアトルにNBR(The National Bureau of Asian Research)というシンクタンクがあり、(シアトルにいる間は)時々、会合に参加しています。
テーマは、米国とアジアの国々との経済・安全保障面での連携・対立などです。当然ですが、最近は米国と中国の間の緊張関係が中心で、その観点から、AIや半導体の話をすることが増えています。
今回、東京大学で国際政治経済学・科学技術政策論を専門に研究されている鈴木一人教授がNBRに向けて、日本の半導体政策についてまとめた小論文(The Japanese Semiconductor Renaissance Will It Be Successful?)を発表したので、それに沿って、私なりの解釈・解説を加えたいと思います。
そもそも日本の半導体ビジネスはなぜ衰退したか?
この論文では、まず最初に、日本の半導体ビジネスが衰退した経緯について分かりやすく解説しています。
ひとことで言えば、TSMCによる(水平型の)ファウンドリ・ビジネスに、垂直統合型の日本のビジネスが負けた、となります。
しかし、Teslaのように、垂直統合で成功している会社もあるので、必ずしも垂直統合が悪いわけではありません。
日本の半導体産業がピークを迎えたのは、1980年代後半から1990年代初頭にかけてで、1990年には、日本は世界の半導体生産の51.1%を占めていました。
その頃活躍していたのは、NEC、東芝、日立製作所、三菱電機、松下電器、富士通、沖の7社です。電電公社(今のNTT)向けに通信機器を提供していた「電電ファミリー」と言われる会社群であり、IBMのメインフレームを真似した「IBMクローン」を作っていた会社群とも大きくオーバーラップしています。
日本の半導体メーカーは、80年代前半に、電電公社のデジタル交換機、および、メインフレームやミニコンピュータ向けのDRAMでシェアを伸ばしましたが、その背景には、通商産業省(今の経産省)を頂点に置いた「護送船団方式」があったことは否定できません。
日本政府主導により作られた、さまざまな非関税障壁に守られて、日本の交換機・コンピュータ・半導体ビジネスが戦後の高度成長期に作られたのです。
IBM PCが発売されたのは1981年ですが、その後パソコン市場が徐々に広がり、80年代後半になると、パソコン向けのDRAM市場が大きく成長し始めました。
日本の半導体メーカーは、当初、その「パソコン特需」で大きく売り上げを伸ばしましたが、半導体技術が急速に進歩し続け、大量生産によるスケールメリットが重要になってくると、「複数の半導体メーカーが存在している」「垂直統合であること」がデメリットになってしまいました。