我が国にトランプのケツを蹴っ飛ばす気概はないのか?“裸の王様”の妄動を諭すことなくケツを舐めにゆく下劣極まる石破政権

 

経済的には競合し続けるも覇権争いはしない米中

イマニュエル・ウォーラーステインの「近代世界システム」論によれば、16世紀のヨーロッパで資本主義が勃興し「国民国家」=近代主権国家の形成が始まるや否や、「中核」と「半周辺」と「周辺ないし辺境」という立体構造が生まれた。

それがヨーロッパの範囲で収まらなくなって外延化すると、アフリカ、ロシア、中東、インド、中国などが次々に侵略と収奪の対象としての「辺境」=フロンティアにさせられ、そこまで手を伸ばせる海軍力の競い合いを通じて「中核」における覇権の循環的交代が起きる。ジョージ・モデルスキーの単純化されたモデルに従えば、

           覇権国       対抗国
 (1)16世紀  ――ポルトガル ←→ スペイン
 (2)17世紀  ――オランダ  ←→ フランス
 (3)18~19世紀――イギリス  ←→ ドイツ
 (4)20世紀  ――アメリカ  ←→ ソ連

と遷移して来た訳だが、さてそこで問題は、次は

 (5)21世紀  ――中国    ←→  ?

となるのかどうかである。結論を先に言えば、そうはならない。そうなるためには、覇権システムが永続的とは言わないまでも今後もかなり長きに渡って有効であることを証明しなければならないが、そのような証明は誰も行ったことがない。

にもかかわらず多くの人々が極めてお気軽に「米中の覇権争い」という表現を乱用しているのは知的惰性の産物に過ぎず、甚だしく世を惑わすものである。

米中は今もこの先も、経済的には競合し続けるだろうが、覇権争いはしない。なぜなら、海軍力を主な手段として奪い合うべき物理的・空間的なフロンティアがもはや地球上に存在しないからである。

覇権システムが永続的ではないという「当たり前」

ウォーラーステインの晩年の著作『史的システムとしての資本主義』が表している通り、資本主義は史的システムであり、世界史のある時期に現れてやがて終わっていく事象である。その資本主義が利潤を極大化させようとする過程で生じる主要な属性の1つである覇権システムが永続的ではないのは、当たり前のことである。

いや、資本主義にはまだ電子的金融空間というフロンティアが残されているではないか、という反論があるかもしれない。確かにそこは資本主義の最後の逃げ場ではあるだろうけれども、そこには理論上、物理的・空間的な限界はなく、従って軍事力によって覇権を争う余地もなく、1秒で何千回もの取引を繰り返す「超高速取引」のプログラムの優劣を比べ合うという馬鹿げた電子的カジノに堕していて、つまりは資本主義の自己戯画化の極致である。

なぜそれが戯画なのかと言えば、スパコンもAIも持たない一般市民は誰一人それに参加できない「あの世」の架空話のようなものだからである。

つまり、水野和夫が『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書、2014年)で鮮やかに示したように、西欧起源の資本主義はこのように戯画と化しながら終焉に向かい、だからその属性の主要な1つである覇権システムもトランプ的知的大混乱の中で終焉に向かうのである。

資本主義が終わってしまうとその後はどうなるんだと不安に思う向きもあるだろう。しかし、終わるのはあくまでも「16世紀西欧起源の資本主義」であって、その後には、社会主義・共産主義の社会が来るのだというマルクスの夢が潰えている以上、他に一体何が来るのかと惑うかもしれないが、そんなことは心配することはなくて、まあ、なるようになるしかない。

これを言うと、非難轟々を浴びるかもしれないが、次に何が来るかの実験で先を行っているのは中国である。焦点は、経済発展における「政府と市場の役割分担ミックス」の精密さであり、90年代後半以降の欧州社民勢力の「第三の道」の模索が新自由主義に引き摺られ過ぎて概ね挫折した後では、中国流のやり方に学ぶべき多くがあるのではないか。

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