企業の不祥事が発生すると、経営トップが謝罪会見を開き、役員報酬の減額などを発表する光景が繰り返されます。しかし、頭を下げることや反省の言葉を述べることが、本当の意味での責任を果たすことになるのでしょうか『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』では、著者で健康社会学者の河合薫さんが形式的な謝罪会見に潜む問題点を掘り下げます。
GMO“謝罪劇場“への違和感
一昨日のGMOインターネットグループによる謝罪会見。
不正アクセスと情報流出を受け、熊谷代表らが沈痛な面持ちで頭を下げ、役員報酬の減額を発表しました。
しかし、画面越しにどこか「お芝居を見せられているような違和感」を抱いたのは、私だけでしょうか。一体何のための記者会見なのか、正直なところわからなくなりました。
企業の不祥事が起きるたびに、「トップが頭を下げる」「役員報酬を返上する」という形式的な儀式(会見)が行われます。そして、私たちはそれを「説明責任を果たした」かのように受け止めてしまいがちです。
しかし、そもそも「説明責任」とは何なのでしょうか。
この言葉は英語の「accountability(アカウンタビリティ)」の訳語として広まりました。しかし、実は当時から多くの識者によって「ほぼ誤訳である」と批判されてきたのです。
例えば、法哲学者の嶋津格・千葉大学名誉教授は、本来のaccountabilityとは「誰が責任者であるかを特定できる条件が成立していること」が前提であると指摘します。形式的にトップにいる者がカタチだけの責任(減給など)を取り、経緯を言い訳交じりに口頭で説明することは、本質的な「accountability」ではありません。
嶋津先生によれば、本来のaccountabilityとは以下を指します。
「各自が自分に委ねられた権限と資源を、申し開きできる形で行使・管理したことを、証拠を挙げて説明できること。それが失敗した時には、実際の責任者は誰なのか、何を根拠に何のためにその決定を行い、どこが失敗だったのかが批判的に検討できること」ーー。
今回のケースでは、専門子会社からの事前指摘がありながら、なぜ対策が放置されたのか。どの権限を持つ誰が、どのような根拠でその判断を下したのか。求められているのは、「エスカレーション(上層部への報告・引き継ぎ)はなかった」とか、涙ながらの自論や「反省の弁」ではありません。
不都合な事実もタイムラインと「証拠」を揃えて全開示し、失敗の決定プロセスを検証できる状態にすること。それこそが、私たちが今、企業トップに求めている「本物の説明責任」ではないでしょうか。
結局、今回の会見で明らかになったのは、「誰も本当の責任を取ろうとしない組織の構造」だけだったのかもしれません。
形式的なお辞儀と減給という「演出」で幕を引く時代は、もう終わらせるべき時期に来ている。そう思えてなりません。
みなさんのご意見、お聞かせください。
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