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Asaf Eliason /Shutterstock.com

「イスラム国」すら恐れるテロ組織の拠点に歩いて行った男

テロとの戦いは神経戦だった!「イスラム国」に対抗できる最強勢力として認知されつつある「クルド労働者党(PKK)」ですが、元をただせばテロ組織。そんな組織の活動地域を徒歩で旅した男の実録フォトレポート!

 

あるきすと平田とは……

ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発。おもに海沿いの国道を歩き、路銀が尽きると帰国してひと稼ぎし、また現地へ戻る生活を約20年間つづけています。その方面では非常に有名な人だったりします。普通の人は何のために……と思うかもしれませんが、そのツッコミはナシの方向で……。

第3回 実録! トルコでテロの恐怖に怯える

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第3号より一部抜粋

いやはやテロの影に怯えるというのは神経をすり減らすものだ。それに胃もキリキリ痛む。僕はトルコ東部で約3週間にわたり、その恐怖を味わいながら徒歩旅行をつづけていた。

トルコといえば、ヨーロッパとアジアの両大陸にまたがる歴史と商業の町イスタンブールや、まるで火星の地表を彷彿とさせるカッパドキアなどが日本では有名だが、一方で、登山やウインタースポーツ好きのヨーロッパ人のあいだでは、少数民族のクルド人が居住することからクルディスタン(クルド人の地)と呼ばれるトルコ東部の山岳地帯もまた名の知られた旅行先だ。例年なら夏山登山の欧米人でにぎわうはずのクルディスタンを、僕は東隣のイランへと抜けるために歩いた。

トルコ東部、クルディスタンの山岳地帯を歩く。6月末だが尾根には残雪が見える。

ところが僕が徒歩で旅した1992~93年ごろは様子が違っていた。これまでもクルド人の非合法組織「クルド労働者党(PKK)」がトルコ軍兵士や警察官、穏健派クルド人などを狙ってテロ活動を起こしていたが、このころになると村民虐殺や長距離バス襲撃などの無差別テロや外国人旅行者の誘拐にも手を広げ、ヨーロッパからの旅行者が激減していたのだ。

実際、僕の旅行中に南東部のバン湖周辺でイギリス人旅行者が誘拐された。英字新聞に載っていた被害者の家族や駐トルコ・イギリス大使のコメントがふるっている。

「こんなことでへこたれるような軟弱な息子ではありません。息子は窮地を脱し、絶対生きて戻ってきます」(父親)

「彼はひじょうに勇気あるイギリス青年だ。そんな彼をイギリス政府は見殺しにしない。トルコ政府に働きかけ、かならず彼を救出します」(イギリス大使)

どちらもとっても勇ましい。「馬鹿なヤツめ、余計なことを」などという嘲笑やハタ迷惑感は微塵もない。当時はバン湖周辺でテロが多発したことから、外国人の旅行は禁止されていたにもかかわらず、である。

では、誘拐事件の被害者が日本人だったらどうだろうか。

被害者の家族は異口同音に、

「息子の身勝手な行動から各方面の方々に多大なるご心配とご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

大使館や政府筋となると、

「相手国政府と連絡をとり、被害者の解放に向け全力で取り組む所存であります」

日本ではどうしても「馬鹿なヤツめ、余計なことを」となってしまう。マスコミも含めて袋叩きにされる土壌があるのだ。出る杭は打たれる国なのである。

誘拐されたイギリスの青年がうらやましくもあるが、いい年をした引っ込み思案な日本人旅行者としては、トルコ東部で誘拐されて「多大なるご心配とご迷惑」を多方面にかけてしまうことは避けたい。

ノアの箱舟伝説で有名な標高5165メートルのアララト山の麓に位置する、イランへ抜けるルート上の要衝の地ドーバヤジットは何年も前から慢性的にテロの標的にされていたから、トルコを歩くと決めたときもさすがにここまでは無理だとおもったが、治安上、進めるところまで進みたい。僕はそのため毎日のように地元の警察や軍の駐屯地へ顔を出し、その日に歩くつもりの30~40キロ間の治安が保たれているかどうかを尋ね、「日中だけなら歩いてもだいじょうぶ」のお墨付きをもらって徒歩旅行をつづけるのだ。

こんな態勢で3週間ほどがんばってみたわけだが、とどのつまりイラン国境まで残り170キロほどのギュネイカヤ近郊でパトカーに乗せられる羽目になった。トルコの徒歩旅行はギリシャ国境から1954キロ歩いたところで強制終了されてしまったのである。

クルド人の燃料。家畜の糞と藁、土をこねて天日干し中。エルズルム近郊。

クルディスタン。黒海沿岸のトラブゾンから南東へ進むとまもなく標高1500メートルを超える高地になる。7月というのにあちこちの尾根近くに雪が残り、ところどころで清冽な雪解け水が山肌を駆け下っていた。山裾に広がる草原ではクルド人が羊やヤギ、牛を放牧し、刃の長さが70センチもある大鎌で牧草をなぎ払っている。また、あまり広くない平地は麦畑や野菜畑として利用されていた。

クルディスタンでは羊やヤギ、牛の放牧がさかん。この直後、パトカーに強制乗車。

クルドの女性はイスラムの伝統にしたがい、顔も含めた全身を茶色のブルカで覆い隠して見知らぬ男とは口も利かない。一方、男たちは人なつっこく、よく声をかけられた。

「ギャル、ギャル、ギャル! チャイ、チャイ、チャイ!」(来い、来い、来い! お茶、お茶、お茶!)

僕は手持ちの水がなくなると紅茶やアイランを恵んでもらった。クルド人のアイランはヤギの乳で作ったヨーグルトに塩と水を加えた自家製ドリンクヨーグルトだ。酸味と塩気、そこはかとない甘みがない交ぜになったスグレモノで、いまだにあんなうまいドリンクヨーグルトを飲んだことがない。

クルドの若者と子どもたち。このあと、なぜか彼らは怒り出し、僕に石を投げてきた。

このように書くといかにも牧歌的で、いったいどこにテロの恐怖なんかあるんだと疑われそうだが、それ以外の現実もある。平和そうな風景の中を歩いていると、ジープが行くわ、兵員を満載した輸送車が来るわ、荷台に重機関銃を装備した軍用車が通過するわ、とうとう戦車を載せた大型トレーラーまでもが往来しだしだ。

おいおい、こんな心和む雄大な風景になんと不釣合いな道路事情なんだ。こんな物騒な道を本当にリュックサック背負ってのうのうと歩いていてだいじょうぶなのかよ。

東へ行けば行くほどテロの危険性は高まるそうで、東部の大都市エルズルムなど大きな町に近接する軍事基地には戦車が何両も待機し、町はずれの道沿いには南側の山の尾根に照準を合わせた迫撃砲が配置され、なにに目を光らせているのだろうか、ときどき10人ほどの兵士の一隊が自動小銃を抱えて山の斜面を徘徊していた。

僕が顔を出した警察や軍はまだこのあたりではPKKのテロは起こっていないというものの、軍用車両が足しげく往来する上にこれだけ厳重な警戒態勢を目の当たりにすると、逆にテロは起こるんだろうなと勘繰ってしまう。なんといっても意表を突くのがテロだからだ。

たとえば、山間の道を歩いていると、さほど遠くない岩山の稜線から男がこちらをじっと見下ろしていることがある。あんな場所に人がいるのは不自然で、彼らが家畜を放牧中の牧夫なのか、登山者なのか、テロを警戒中の兵士なのか、はたまたPKKのスナイパーなのか、僕にはまったく区別がつかない。道の両側に山が迫って逃げ場がないところでは、仮に男がテロリストでこっちが標的だとしたら、ハイそれまでよ。

こういうときはただひたすら、どうか男がテロリストではありませんように、テロリストだとしても僕を標的にしませんようにと、心の中で手を合わせながら通り過ぎるしかない。胃袋は縮み上がり、おしっこがちびるのである。

立ちはだかる岩山。夏の暑熱でコールタールが溶けないよう路面には土がかぶせてある。

そうこうするうちに恐れていたことが起こった。10日ほど前に通過したギュムシュハネの郊外で20人以上の村民が虐殺されたのだ。東へ行くほどテロの危険が高いといわれていたのに、実際には僕が歩いてきた西の方角で発生したのである。こうなると次回のテロはどこで起こっても不思議はない。歩く旅もそろそろ潮時だ。

そして1993年7月7日、トルコの徒歩旅行最後の日がやってきた。

前方から走ってきた乗用車が横に停車し、風貌のよくないドライバーが窓越しに声をかけてきた。三白眼でこっちを睨みながら、いかにも酔っていますみたいなしゃべりかたである。

「このあたりにゃテロリストがいるかもしれんから、歩くのは危ねえ。早く車に乗れ」

「あちこちの軍や警察で事情を話し、昼間ならだいじょうぶだといわれて歩いている」

僕の答えに面食らった表情を見せたのもつかの間、彼はこう言い放った。

「俺だっておまわりだ!」

しかしこの男の放つ雰囲気が、警察官というよりよっぽどテロリスト然としていたので断ると、

「テロリストに襲われても知らねえぞ」

と捨て台詞を吐いて去っていった。

男の正体はわからずじまいだったが、それからしばらく行くと今度は前方からパトカーが来た。前の男と違って、降りてきた警察官はたいそう慇懃だった。

「ここから東方面はたいへん危険なので、パトカーに乗ってください」

ああ、とうとうこの日が来たか。ここまで十分に情報収集したうえで歩いてきたものの、僕は確実に神経をすり減らしていた。テロはどこで発生するかわからないが、実際に近場で発生している。いつも胃はキュルキュルと音を立て、寝つきも悪い。そして疑心暗鬼になる。テロとの戦いは神経戦だとわかった。

精神的に疲労困憊の僕にとって、このドクターストップならぬポリスストップはまさに天の恵みだった。三白眼の男の車への同乗は断固拒否したが、今度は素直にパトカーの後部座席に乗り込んだ。

チョルム近郊の駐屯地前。軍事基地や警察を訪ねて情報収集しながら旅をつづけた。

そこから約50キロ離れたアールまでの車内は楽しかった。同乗の3人の警官はいろいろ聞きたがるし話したがる。僕はポルトガルからずっと歩いてきた旅の話をし、つぎはイランを歩くと伝えた。

愚問とはおもいつつ、テロは怖くないかと尋ねると、僕の隣に座った警官は腰から拳銃を引き抜いて毅然と答えた。

「やつらが来たら、これでズドンだ。ちっとも怖くねえや」

僕は彼の勇ましい返事に安堵したものだ。

ちなみに彼らが拳銃以外に所持していた自動小銃はロシア製だとか。

また、運転手役の警官はもともとドイツのブンデスリーガでプレーしていたプロサッカー選手で、当時一緒だった奥寺康彦は友だちだといった。彼は華麗なドリブルで相手ディフェンス陣を切り崩すように、巧みなハンドルさばきを披露して穴ぼこだらけの道路をぶっ飛ばす。それでもときどきタイヤが穴にゴボッとはまって車体が大きくきしむと、こう愚痴った。

「まったくトルコの道路は安っぽい。ドイツのアウトバーンは最高だったよ」

チョルムの駐屯地内で司令官と。彼は過去のPKK掃討戦で多くの仲間を失っていた。

アールの警察署前でパトカーを乗り換える。どこへ連れていくんだと聞くと、このままイラン国境まで送るという。なんとトルコ警察は170キロも先の国境までパトカーで送迎するという。待て待て、パトカーなんだから、やっぱ護送か。

僕は警察の好意に感謝したが、やはりパトカーをタクシー代わりに利用するのは忍びない。また、ちょっと考えれば警察の魂胆が透けて見える。このアホな日本人をここで下車させてしまったら、また歩き出すかもしれない。それは断固阻止せねばならぬ。

どうも彼らはそれを危惧したようである。正直なところ僕はイラン国境までの約170キロを歩くつもりはまったくなかった。治安上ギリギリの地点まで歩くという重圧から解放され、とにかく骨休めがしたかったからだ。このまま国境まで護送されていきなり酒も飲めないイランに入国してしまえば、それこそ息抜きすらできない。

僕の脳裏には、約2ヶ月前にイスタンブールで顔見知りになったトルコ人のじゅうたん屋の客引きや日本人バックパッカーの顔が浮かんでいた。イスタンブールを徒歩で発ってから2ヶ月以上も日本人と会っていない。日本語が恋しい。よし、イランへ行く前に一度イスタンブールに戻ろう。そして浴びるほどトルコのエフェスビールを飲み、ガラタ橋ほとりの名物・船上さばサンドを腹いっぱい食べて、テロの恐怖で萎縮した胃袋を元の大きさに戻そう。日本人宿「モラ」に泊まって日本語でいっぱい話をしよう。イスタンブール大学前のマクドナルドでゆっくり日記を書こう。

そう心に決めると、彼らに長距離バスでイスタンブールに戻ると伝え、パトカーでのイラン護送を断った。

夜行バスはテロを警戒して運行していなかったのでこの夜はアールに1泊、翌日午後発のバスに乗ることにした。警察は僕をアール市内の安宿まで送るというので、警官ふたりと再びパトカーに乗る。茶店に寄って紅茶をご馳走になったあと、安宿まで連れていってもらった。礼をいってパトカーを降りると彼らもまた下車してきて、人騒がせな日本人旅行者に腕を差し伸べ、握手を求めてきた。

「気をつけてよい旅を」

「みなさんもテロに気をつけてください」

僕は世話を焼いてくれた警察官と固い握手を交わし、1泊300円の安宿の玄関ドアを押した。

 

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第3号より一部抜粋

著者/平田裕
富山県生まれ。横浜市立大学卒後、中国専門商社マン、週刊誌記者を経て、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発、現在一時帰国中。メルマガでは道中でのあり得ないような体験談、近況を綴ったコラムで毎回読者の爆笑を誘っている。
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