マネーボイス メニュー

From Wikimedia Commons | Yale University

クルーグマンと浜田宏一氏の誤り~『2020年 世界経済の勝者と敗者』を読む=吉田繁治

本稿のテーマは、「『2020年 世界経済の勝者と敗者』を読む」です。今年1月26日に出版された書籍で、ノーベル賞経済学者のポール・クルーグマンと、内閣官房参与の浜田宏一氏の対論です。

クルーグマンは『流動性の罠』の論を書き、浜田宏一氏は内閣官房参与として、政権に異次元緩和というリフレ策を提唱しています。両氏は、2013年4月からの異次元緩和の仕掛け人です。リフレ策とはインフレにもって行く政策セットを言います。

異次元緩和は、日本経済と財政の将来を大きく決めるものでもあるので、3年間、重大な関心を持ち続けています。両氏のリフレに関する本は、出版されたほとんどを読みました。

この本は、クルーグマンと浜田氏の対論を、翻訳家の大野和基氏が訳してまとめたものです。口語調になっていますが、裏には、経済理論があります。読んでいて、両氏の基本認識に誤りがあるのではないかと感じたことが、本稿を書く動機になったのです。(『ビジネス知識源』吉田繁治)

浜田宏一氏は誤りを認め、政策を修正することが必要である

1.「インフレ目標」の前提になった消費論

浜田宏一氏:
インフレ目標が必要なのは、人々におカネにしがみつくのをやめさせて、失業を解消したり所得を増加させたりして、日本社会をよりよいものにするためです。本来の「目標」はそこであって、インフレそのものが目標なのではありません。いわば、おだやかなインフレは「手段」です

出典:『2020年 世界経済の勝者と敗者』 P80

【解釈】

インフレ目標が必要なのは、人々がお金にしがみついて使わないからだと浜田氏は言っています。「お金にしがみつく」とは、所得のうち貯蓄にまわすものが多いということでしょう。

マクロ経済では、「所得=消費+貯蓄」です。貯蓄が大きいと、消費が少なくなります。50万円の月収の人が15万円(30%)を貯蓄すれば、消費は35万円です。消費は企業の売上です。世帯全体の、貯蓄が増えて消費が少なくなれば、260万企業の売上は減ります。作られた商品が売れない。つまり不況になります。

浜田氏は、幾度も、貯蓄が多いのは、人々が物価は先になれば下がると考えているからだと言っています。今年は1000円ですが、来年は950円に下がると思えば、人々は消費を先延ばしにするでしょう。つまり消費は減って、貯蓄が増えます。

貯蓄が増えることを、浜田氏は「お金にしがみつく」と表現しています。その上でもっとお金を使ってもらうためには、インフ目標が必要だと論じます。ここが「リフレ必要論」の根幹です。リフレは、金融政策でインフレを起こすことを言います。

【貯蓄率についての誤り】

ここに、浜田氏の認識の誤りがあります。わが国の5300万の世帯は、1990年代までのようには貯蓄していないからです。事実で言います。原データから抽出し、3年毎に示します。

可処分所得 消費 貯蓄 貯蓄率
1995年 300兆円 274兆円 29.2兆円 9.9%
1998年 307兆円 283兆円 27.0兆円 8.8%
2001年 292兆円 283兆円 10.4兆円 3.6%
2004年 288兆円 283兆円 5.0兆円 1.7%
2007年 290兆円 289兆円 1.0兆円 0.3%
2010年 278兆円 278兆円 -1.9兆円 -0.7%
2013年 287兆円 289兆円 -3.7兆円 -1.2%

出典:内閣府 国民経済計算(P8~9)[PDF]
(注)可処分所得は、総所得から税金と社会保険料を引いたもの。年間2兆円くらいの年金準備金の減少は省略しているため、この表だけでは、その分合計が一致していません

1990年代まで、わが国の世帯には、平均で可処分所得の8%から10%の貯蓄がありました。しかし、退職者が増えた2000年代から、貯蓄率は急減して、2010年にはマイナスになっています。65歳以上の退職世帯は、厚生年金(世帯平均20万円/月)では足りないため、年間で60万円の預金を崩すことも、この要因のひとつです。

主要国の比較でも、わが国世帯の貯蓄率の低さは、イタリアを下回り、先進国のなかで最低である0%付近です。

以上の事実は、世帯は所得以上に消費していることを示す以外ではないでしょう。お金にしがみつくのではなく、所得以上に使っているのです。1995年の可処分所得だった300兆円が、2013年には289兆円(1世帯あたり545万円)に減っているため、貯蓄の余裕がなくなっているのです。

以上の事実を無視し、あるいは知らず、浜田氏は「人々は、消費をせず、おカネにしがみついている」と断じています。重大な事実認識の誤りがここにあります。

Next: 所得が上がらない中で物価が上がるのは、スタグフレーションである



【所得が上がらない中で物価が上がるのは、スタグフレーションである】

世帯が可処分所得以上にお金を使っていて、貯蓄ができなくなっているとき、店頭の物価が上がればどうなるか。貯蓄を崩さない限り、買うことができる商品の量が減るでしょう。

物価が上がる中で消費が減るのは、「スタグフレーション」です。わが国のように、所得が増えていないとき、あるいは世帯の総所得が上表のように減っている中で物価が上がれば、需要が増える好況どころか、消費は減って不況になります。

【家計消費の減少】

事実、2014年4月に消費税が上がった後の家計消費は、減っています。最も近い2015年12月の、5300万世帯の家計消費は、物価上昇を引いた後の実質(=買った商品の数量)で、4.4%も減っています。

異次元緩和開始後、2年9か月が過ぎましたが、ボーナスを含む12月の世帯所得は、名目で2.7%、物価上昇を引いた実質で2.9%減っています。以上が「現実」です。
家計調査(二人以上の世帯)平成28年(2016年)1月分速報 (平成28年3月1日公表) – 総務省統計局

【家計貯蓄率に関する若干専門的なこと】

世帯の消費には、帰属家賃が含まれています。持ち家の世帯も、借家の世帯と同じように家賃を払ったと仮想したものです。2014年度で28兆円です(消費額のうち10%)。実際には家賃としては払われていないので「貯蓄」であると主張する人がいます。

しかし持ち家世帯の多くは、住宅ローンを支払っています。住宅ローンの支払いは負債の返済なので、国民経済計算では貯蓄勘定です。実際の消費支出ではありませんが、ローン支払いが貯蓄なので、多くが相殺されます。帰属家賃28兆円が含まれているから、実際の貯蓄はもっと多いという論は、成立しません。

【結論】

「物価が下がるから、人々がお金にしがみつき、消費を増やさない」という浜田氏とリフレ派(クルーグマンを含む)の立論は、2000年代になって世帯所得が減り、貯蓄率が大きく減っている日本では誤りです。
(注)リフレ派のエコノミストがこの誤りを無視したのは、不思議です

誤った事実認識が前提のリフレ論は、結論まで間違えてしまっているのです。

クルーグマンは専門的に、物価が下がっている日本では、消費や投資より、現金と預金を好む「流動性選好」が生じていると言っています。お金を貯め込むことを専門語で言ったのが「流動性選好」です。

これをもとに、現金を貯め込んで使わないという『流動性の罠』を説き、日本に、円を増刷してインフレを起こす異次元緩和を奨めたのがクルーグマンです。インフレになれば、人々はお金を多く使うという前提からです。消費が増えれば好況になる。好況になれば、企業の利益が増えて賃金も上がる、賃金が上がれば消費が増える好循環になるというのが、日常語で言ったリフレ理論です。

ところが上表が示すように、日本の世帯では、「流動性選好」は生じていません。逆に、所得が減ったため消費を増やすことができなくなっているのです。所得が減ったため、消費も貯蓄も増えないという状況が生じているのです。
(注)260万社の企業合計では、中小企業ではなく、大手企業を中心に、設備投資が減って貯蓄を増やす流動性選好が生じていますが、世帯では生じていません

日本のデフレ対策は、日銀がマネー発行量を増やすことでなく、「賃金を年5%上げる」ということを、リフレ策にしなければならなかったのです。

【賃金上昇奨励法の奨め】

無謀なことを承知で言いますが、世界に類のない賃金上昇奨励法を制定することで、これが可能になります。一定率以上の賃金を上げた企業には、大きく減税をするのです。

1980年代までの賃金は、年齢加算を含むと、5%~7%は上がっていました。企業では、毎年5%程度の賃金を上げることは、事実上、義務化していたのです。今からでも、遅くはない。賃金上昇の奨励政策を実行することです。ただし企業では、生産性上昇が年3%は必要です。

企業が賃金を上げれば、売る商品の価格を上げねばならない。商品、ホテル代、理容費、医療費、交通費、通信費の価格が3%上がっても、1年に5%賃金が増えれば、消費(=企業の売上)は増えるからです。

21世紀になって、わが国世帯の、平均所得が減っていることを見るにつけて、忍びなくなります。ほぼ20%の世帯は所得が増えていますが、80%の世帯は減っているのです。お金にしがみつくのではなく、しがみつく所得が減っているのです。

Next: 2.インフレターゲットの本来の意味と「3つのインフレ」を理解する



2.インフレターゲットの本来の意味と「3つのインフレ」を理解する

浜田宏一氏:
アベノミクスが目指す2%のインフレ……それは「物価を毎年、常に2%ずつ上げていく」ということです。しかしインフレはモノの値段が上がるということですから、「物価高=悪」というイメージを持っている人もいるのではないでしょうか。しかし物価が上がるということは、企業が儲かるということです。すると、設備投資や雇用も進みます。もちろん、給料も上がります。インフレとはこのような経済全体の上昇を指しているわけです。

出典:『2020年 世界経済の勝者と敗者』 P83

インフレには、浜田氏が、ここでいう、所得上昇と設備投資を生む好循環のものだけではなく、悪循環を生むもの(後述の2種)があります。よいインフレは1種で、あとの2種は悪いインフレです。確認して、整理します。

【1種目:よいインフレ – デマンドプル型のインフレ】

これが、浜田氏がいう上記のインフレです。所得の増加期待がある社会で、物価が上がると、人々は消費を増やす。消費は企業の売上だから、売上が増えれば、利益が増える。

利益が増えれば、企業は賃金を上げて、雇用も増やすだろう。将来のための設備投資も行い、経済は成長する。これが上記です。デマンドプル型のインフレです。つまり所得が増え、需要が増えることによるインフレです。

【2種目:悪いインフレ – コストプッシュ型のインフレ】

これが、異次元緩和後の日本で起こったことです。安倍内閣になり、日銀が円を増発するという予想から、2012年10月から$1=80円が、まず100円に、次に120円に向かって下がりました。増発される通貨は、通貨価値が下がり、売られます。50%もの円安です。

この円安と、2014年6月までは、1バーレル$100だった原油価格と、輸入の金属資源、穀物やコーヒー、砂糖、油脂など食料の原材料を含むコモデティの価格のため、輸入物価が50%も上がったのです。国際コモデティは、米ドルで取引されるからです。

輸入物価の上昇は、資源を輸入に頼るわが国工業の、商品原価を上げ、卸価格も上がって、物価は上昇に転じています(2013年から)。これはエネルギーと原材料の価格が上がることによる、コストプッシュ型のインフレです。需要が増えることによるデマンドプル型とはまるで異なります。

コストプッシュ型のインフレでは、製造原価が上がるので、その分商品価格が上がっても、企業利益の増加がありません。利益の増加が見込めないと、賃金は上がりません。雇用も増えない。設備投資も増えません。

これが、2013年、14年とアベノミクスで上がった物価の正体でした。政府と日銀は、コストプッシュ型の物価上昇を「デフレ脱却」と言っていますが、これは、実は「悪いインフレ」です。

浜田氏は、インフレを区分せず、「物価が上がることは企業が儲かる」ことだと単純化し、異次元緩和のリフレ策を推奨しています。

ここに、インフレの3区分をしていない浜田氏と、浜田氏にリフレ策の経済理論の根拠を提供したクルーグマンの誤りがあります。

3種のインフレを無視し、よいインフレであるデマンドプル型のインフレに単純化しているからです。

【3種目:悪いインフレ – 通貨価値の下落と、資産バブル型のインフレ】

通貨が増刷され、その通貨が投機に使われて、資産価格(株価、不動産、債券)の価格が上がるインフレです。この場合、消費者物価は、あまり上がらない。資産価格が2倍、3倍になるインフレであり、これは「通貨価値の下落」です。これも、経済に好循環を生まない悪いインフレです。

資産価格のインフレが進み、消費者物価の上昇になって行くと、物価が数倍に上がるインフレになることがあります。

資産バブル型のインフレの怖い点は、負債で行われた投機的な投資によって上がった株価と不動産が暴落する時期が、必ず来ることです。

そのとき、不良債権の発生(マネーの不良化)により、バブル後の恐慌か、恐慌に近くなる。1990年から日本のバブル崩壊、2008年のリーマン危機で起こったことがこれです。原因は、資産価格のバブル的なインフレでした。

Next: 3.異次元緩和によるリフレ策の誤りを認め、政策を修正することが必要



3.異次元緩和によるリフレ策の誤りを認め、政策を修正することが必要

以上のように、インフレには、

  1. デマンドプル型(いいインフレ)
  2. コストプッシュ型(悪いインフレ)
  3. 資産バブル型インフレ(わるいインフレ)

の3種があります。

実際インフレは、3種が混合した形で起こることも多い。「インフレ=善の結果を生む」と、単純な線的論理では言えないのです。

浜田氏は、ここでも誤りを犯しています。誤りなら、誤りを認めて修正せねばならない。

異次元緩和によるリフレ策の誤りが、論理的に指摘されることは少ない。これが、本論を書いた目的です。経済政策は、人々を経済的に幸せにするものでなければならないと思うからです。

【関連】黒田日銀の白旗宣言inNY~異次元緩和の失敗を示すマイナス金利政策=吉田繁治

【関連】高橋洋一氏「日本の借金1000兆円はやっぱりウソでした」論は本当か?=吉田繁治

【関連】異次元緩和は失敗だった。クルーグマンの『Rethinking Japan』を読む=吉田繁治

【関連】黒田日銀の「大誤算」~マイナス金利で円高・株安が起きた真の理由=吉田繁治

ビジネス知識源:経営の成功原理と実践原則』(2016年2月7日号)より一部抜粋
※太字はMONEY VOICE編集部による

無料メルマガ好評配信中

ビジネス知識源:経営の成功原理と実践原則

[無料 ほぼ 週刊]
■読むと目からウロコが落ちると評判の経営戦略。面白く読むうちに高度な原理がスッとわかる■経営戦略、小売・流通、情報技術戦略、金融・経済、ロジスティクス、EC、SCM、CRM■良質な情報の提供。■有料版は『2008年めるまが大賞1位』を受賞

シェアランキング

編集部のオススメ記事

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MONEY VOICEの最新情報をお届けします。