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Dmitry Kalinovsky/Shutterstock

インドを1年半かけて歩いた男が、唯一警察に通報したチキンカレー事件

テロ組織の拠点に足を踏み入れたフランスで路上強盗に襲われたりとありえない体験ばかりをしているあるきすと平田さんが今度はインドでブチ切れてカレー屋で大立ち回り!けれどもその理由がもも肉と手羽先って……。

あるきすと平田とは……

ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発。おもに海沿いの国道を歩き、路銀が尽きると帰国してひと稼ぎし、また現地へ戻る生活を約20年間つづけている、その方面では非常に有名な人だったりします。普通の人は何のために……と思うかもしれませんが、そのツッコミはナシの方向で……。

第5回 暑くて辛くてしつこいインド編 その1

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第5号より一部抜粋

なぜインドはあんなに暑くてインドカレーはあんなに辛くてインド人はあんなにしつこいんだろう。そしてインドを長く旅するとその暑さや辛さやしつこさに感染するというか、インド化・インド人化がヒタヒタと進行し、気づいたときには「オレ、なにやってんだろう?」状態に陥っている。正であれ負であれインドはインパクトが強烈で、海外旅行ビギナーは要注意ですよー。

首都ニューデリーの安宿で会った日本の男子大学生からこんな話を聞いた。

「彼女とふたりで1週間の予定でインドに来たのに、彼女、たった1日で帰国しちゃって」

ふたりでテレビの旅番組を見てインドに興味を抱き、生まれて初めての海外旅行先にインドを選んで飛行機でカルカッタ(現コルカタ)に入った。中部インドのお釈迦さまの足跡をたどったあとアグラでタージ・マハルを観光する人気コースを1週間かけて旅行して、ニューデリーから帰国する予定だったそうだ。

「なのに、入国してコルカタの街なかを半日ぶらついただけで彼女ものすごく不機嫌になって、翌朝の便で帰っちゃったんですよ。滞在時間たったの24時間。
『市内を半日歩いただけで鼻の穴が真っ黒になるしインド人はしつこいしカレーは辛いし乞食がいっぱいいるし。もうなにもかもイヤだ!』って言って。だからそのあと僕はひとり旅だったんだけど、インド、めちゃくちゃ好きになりました」

そう、インドはハマるヤツと嫌うヤツにまっぷたつに分かれる国なのだ。たぶんふたりは帰国後、「性格の不一致」でまっぷたつになったことだろう。

過積載だっちゅーの。なので交通事故も多発

また、別の日本人バックパッカーは3ヶ月間の長旅後、こんな一句を残して帰国した。

「インド人 脳みそあるけど ツルッツル」

誤解を恐れずにいうなら、上の一句に激しく同意、ツル同、いやハゲ同なんである。

そして僕はそんなキョーレツで摩訶不思議な国インドを1年4ヶ月間かけて、西隣のパキスタンとの国境から、あの逆三角形のインド亜大陸の形にほぼ沿うように6484キロを1ミリの途切れもなくすべて徒歩で旅し、東隣のバングラデシュへと歩いて出国した。

今回は、現地で出会った「脳みそあるけどツルッツル」なインド人たちを紹介しながら、インドの徒歩旅行を振り返ってみたい。

サーカス見物。前から3列目なのにターバンが邪魔でよく見えん

僕のインド入国は1994年1月16日。パキスタンのラホール郊外からインド北西部のパンジャブ州アタリの国境を越えた。もう17年以上も前のことだ。冒頭、インドは暑いと書いておきながら、さすがに1月、ヒマラヤ山脈まで直線で200キロの地は肌寒く、しばらくは長ズボン長袖シャツ姿で、それにからだの前後にデイパックとリュックサックを担いだサンドイッチマンスタイルでの歩き旅になった。しかし暑いより寒いほうが快適に歩けるというもの。

初日は国境から28キロ歩いてパンジャブ州都のアムリトサルに到着するまで、道行くインド人からよく声をかけられた。言葉は通じないけど身振り手振りから、どうやら道路の左端を歩きなさいと注意されているようである。

インドはイギリスの植民地だったせいで、香港や日本と同じく車は左側通行だ。「車は左、人は右」と教わった日本人ならば、歩行者は道路の右端を歩くものだし、車と歩行者は対面通行するほうが安全だとおもっている。

ところがインドじゃ「車は左、人も左」どころか、「道行くものは、みな左」で、動くヤツは車だろうが人だろうがバイクだろうが自転車だろうが三輪車だろうが全部左側通行、このルールを守らないのは野良牛だけだ。

しかしやってみればわかるが、これは慣れないとかなり怖い。自分の後方から猛スピードで迫りくる車がほんのちょっとふらついて道路の左端に寄れば、歩行者は気づかないうちにはねられてしまう。日本のような対面通行だと前方から来る車の動きを自分の目で確かめられるので、運がよければ衝突を回避できるかもしれない。

そんな僕なりの安全安心感をインド人はまったく理解してくれず、とにかく左端を歩けとうるさい。彼らは無知なガイジンに大切なアドバイスをしているつもりだろうが、僕は今でも対面通行のほうが安全だと断言できる。こればかりは命に関わることなので、郷に入っては郷に従えとはいかないのだ。

最初は「オーケー、オーケー。サンキュー」と笑顔で応じながらも右側通行を貫いていたところ、ついには僕の腕をとって無理やり道路の反対側まで連れていこうとするありがた迷惑なおっさんまで登場したではないか。

「ほっとけ、バーローッ!」

あまりのしつこさにイラついて乱暴に相手の腕を振り払い、そんな上品な日本語を浴びせていた。

野良牛。残飯をあさる神聖な生き物。なんだかなあ。パンジャブ州

ところで、歩いている途中、ランチするのに小さな村の小さな食堂をよく利用した。こういうところでは一品料理があまりなく、ターリーと呼ばれるカレー定食オンリーのところさえある。

北部では主食は小麦が一般的で、円形や長方形の給食で使うようなステンレスやアルミ製のお盆に、ナンやチャパティなどのパン、具材と辛さと粘度の異なる数種類のカレー、ダル(ひよこ豆)スープ、唐辛子の効いた漬物、ヨーグルトなどが小分けされて載っている。これを生ぬるい水か、追加注文したラッシー(ドリンクヨーグルト)で流しこむように食する。

南部では、お盆がバナナの葉っぱ、主食が山盛りのライスに代わる以外は北部と大差ないが、最後は余ったライスにラッシーをぶっかけて「乳酸菌茶漬け」とでも呼べそうな代物にして平らげてしまう。

使用済みのバナナの葉っぱを店員が窓から投げ捨てるので、外にゴミ箱でも置いてあるのかなと覗いてみたら、ブタが葉っぱごと残飯をムシャムシャ食べ尽くしていた。このまったく生ゴミが出ないエコシステム、究極のリサイクル術として日本でも広めたいところだ。みなさん、一家に一頭、ブタを飼いましょう。

その食事どきの問題がふたつあった。ひとつは辛さ、もうひとつはインド人の視線だ。

インドのカレーはマサラ(乾燥香辛料)の種類と量の混ぜかたで味が千変万化して飽きがこないといわれる。しかし1年4ヶ月間のインド暮らしの経験から断言していい。

「なに食ってもただ単に辛いカレーじゃないか」

と。

僕の舌ベロの味覚神経は辛口・大辛・激辛の差を感じ取った瞬間に麻痺してしまい、マサラの混ぜかげんによる微妙な違いを味わうなんて高尚で繊細な役割を放棄してしまう。

さらに辛さというのはグリコじゃないが、たいがい一食で二度辛いもんだ。これ、徒歩旅行者にとっては致命的でねえ。ランチを終えてしばらく歩くと下腹がギュルギュル鳴り出すことがしょっちゅうで、そんなときは焦って道端の茂みや潅木の陰に駆け込む。だれもいないとおもってしゃがんでいたら、どこからか子どもが家畜の水牛を引っ張って見物にきたこともあった。

また、気温が40℃を超えた炎天下の野グソは命がけだ。それが高さ1メートルほどの低木が疎らに広がる潅木地帯だとかなりヤバイ。潅木の陰は道路を往来する車からの目隠しにはなるが、丈が低いので真上からの直射日光を遮ってはくれない。しゃがんで用をたしていると、徐々に気が遠のいていく。熱中症にやられつつあるわけで、早く用を終えたいのに下った腹はキリが悪い。

一度、かすかに消え行く意識で思わず叫んだことがあった。松尾芭蕉じゃないが、長らく旅をしていると「客死」とか「野垂れ死に(のたれじに)」という言葉が甘美な香りを放つようになるものだが、このときは、

「ああなんてこった。これは野垂れ死にじゃない。野グソ垂れ死にじゃー!」

インド亜大陸を歩く。毎日暑くてかなわん。最高気温は摂氏49度!

そして辛さと並ぶもうひとつの問題、食事中の視線。

どうも田舎住まいのインド人にはヒマ人が多すぎる。入店とともに客も店員もまん丸まなこでいっせいにこっちを見る。

「なんだ見かけないヤツ。それも笹っ葉で切ったような細い目。ネパーリか?」

彼らの顔には一様にそんな疑問符が浮かんでいる。ちなみに「ネパーリ」はネパール人のこと。多くはインドの北隣の母国からの出稼ぎ労働者で、インドでは一格下に見られている。

そしてインド人は子どもも大人も好奇心旺盛だし、だれかをジロジロ注視することが失礼な行為だとおもっていない。だから僕の右手一本でのヘタクソなカレーの食べっぷりをジーッと眺め、おもむろにテーブルの前へやってきて、「ネパーリ?」と尋ねる。

「ネヒン、ジャパニ(いや、日本人)」

と正直に答えてしまうと大変だ。

リアルな日本人は初めて見るという田舎のインド人がほとんどで、客やら店員やら近所のヒマ人やらがわんさか集まってきて僕のテーブルを取り囲む。衆人環視の中でカレーを頬張ることになるのだが、そんな状況下でにこやかに、あるいは不思議なものでも見るような視線で僕を眺め、そのうち決まってカタコトの英語や筆談で質問攻めにしてくる。

「どうして日本は原爆を落とされて半世紀しか経たないのに、経済大国になれたんだ?」

「雪は降るか?」

「総理大臣の名前は?」

「ソニー、トヨタ、ホンダ、スズキ、パナソニック、トーシバ、ヒタチ。みんなすごい会社じゃないか。どうしてそんなに有名な会社になれたんだ?」

「本当に生魚をかじるのか?」

「故郷はどこ?」

「パキスタンとインドとどっちが好きだ?」

「日本にはヒンズー教徒とイスラム教徒のどっちが多く住んでいる?」

「お酒は飲める?」

「家族は何人いるんだ?」

「インドから日本まで飛行機で何時間かかる? 往復いくら?」

「日本で働きたいから住所を教えてくれないか?」

「アメリカに原爆を落とされたのに、なんで日本はアメリカと仲良しなんだ?」

などなど、ほとんど小学校低学年レベルの剥き出し好奇心でオールラウンドの質問を次から次に浴びせかけてくる。

最初のころはこれも異国の旅の一興と、食べる手を休めて丁寧に答えていたが、毎日毎日昼めしどきにテーブルを囲まれて同じような質問を浴びせられるとさすがにムカツイてきた。

そのうち質問が要望にエスカレートして、日本の女を世話しろだとか、不法入国の手引きをしてくれだとか、白い布で包んだ5キロほどの荷物を持ってきて、帰国時に神戸の知り合いへ届けてくれとか、おまえら、インドの片田舎の食堂でカレー定食を食っているだけの一外国人旅行者をプロの便利屋扱いするんじゃねえよ、と怒鳴りたくなることもしばしばだ。

一服すると、こうやってワラワラ人が集まる。シーク教徒の多いパンジャブ州で

そんな暑くて辛くてしつこいインドを辛抱に辛抱を重ねて歩くこと約1ヶ月、パンジャブ州、ハリヤナ州経由で504キロを歩いてようやく首都のニューデリーに到着した。しかしその間に僕の精神バランスは徐々に均衡を失い、ついにニューデリーのカレー屋で大爆発してしまう。

暑くて歩く気も失せてしまい、その日は朝から徒歩旅行をサボって宿の部屋を一歩も出ずに読書に耽っていた。当時はインターネットなどという便利なものも普及しておらず、インドがイヤでイヤでたまらんのにインドにいなければならない人間としては、日本語の本を読み耽る以外、逃避手段がなかったのだ。

できることならインド人の顔を見たくもないが、朝からなにも食べていないのだから腹が減ってしょうがない。夕方、宿の近所の食堂へと向かう。

道路に面した入口のドアは全開で、店内は会議室のように奥の厨房に向かって4、5人が横1列に座れる木製長テーブルと長椅子が5列ほど並んでいた。

適当な席に着いて周囲のオッサン客が頬張るカレーを眺めると、チキンカレー定食が圧倒的人気を誇っている。水っぽいルーの中にチキンの骨付きモモ肉が1本、デーンと存在感を誇示するように寝そべっている。食いごたえがありそうで、迷わずチキンカレー定食を注文した。お代は25ルピー、日本円換算で75円。まあ庶民向け食堂での相場の値段である。

食堂でカレー定食。「手食」での一口大の量かげんがむずかしい

ふくらはぎと二の腕を何ヶ所か蚊にかまれつつ待つこと5、6分、空腹感も極まったころにようやくチキンカレー定食が長テーブル上に運ばれてきた。さっそく右手でルーに浸るモモ肉を引きちぎろうとつまみ上げ、たまげて心中叫んだ。

「こ、これはモモ肉じゃない、手羽先だ!」

慌てて両隣のオッサン客の皿を再確認すると、やっぱりモモ肉。僕のだけ、手羽先なんである。なぜだ!もしかすると厨房でモモ肉と手羽先とを間違えて僕の皿に盛ってしまったのか。断っておくが、決して手羽先が嫌いではない。手羽先のから揚げ、ビールのつまみにあんなにぴったりのものはない。しかしすでにモモ肉を食べるということを、空腹感でいっぱいいっぱいの脳みそにすり込んでしまった以上、手羽先では困るのだ。それにもし百歩譲って手羽先ならば、2本ぐらい入ってないと量的にモモ肉と釣合いがとれないだろう。

独りよがりにそう判断して、僕は店員を呼んだ。1ヶ月間のインド滞在で数字や挨拶程度のヒンディー語はどうにかなったが、「モモ肉」や「手羽先」はなんていうのだろう。わかんらんが、とりあえず自分の手羽先とまわりの客のモモ肉を交互に指差して、若い店員の男に態度でゴネてみる。日本語でゴネてみる。

どうもいいたいことが伝わらない。そうこうするうち厨房からカタコトの英語を話す料理人が出てきたので英語で事情を訴えたところ、彼は平然とこう言い放った。

「ウチのチキンカレー定食は、モモ肉も手羽先も同じ25ルピー(75円)です」

僕はキレた。インド入国以来1ヶ月間、我慢に我慢を重ねてきた「暑い・辛い・しつこい」のインド辟易3点セットにすでにぐらついていた精神状態の均衡は、このひとことで完全に崩れてしまったのだ。

「なにーっ! モモ肉と手羽先がおんなじ料金だあ!んなわけないだろうが。モモ肉と手羽先だぞ。モモ肉1本と手羽先1本だぞ。モモ肉に交換しろ!」
「すいません。モモ肉は売り切れで、手羽先しかありません」
「手羽先しかない? それなら2本入れるか、値段をまけろ!」
「いや、それはできない。ウチはいつもモモ肉と手羽先を同じ値段で出している」
「そうか、どうしてもこっちの要求を聞かないのか」
「無理だ!」

料理人は僕の要求が不当だと感じているようで、態度が硬化してきたのがわかった。周囲の客も、カレーを右の掌に握ったまま身じろぎもせず、どうなることかとこっちの様子を眺めている。冷静であればこの光景はかなり恥ずかしい見世物だが、1ヶ月間溜まりに溜まった僕の怒りは羞恥心をかなぐり捨てさせていた。ふと開け放たれた出入口から外を眺める。道路の向こう側に公衆電話が見えた瞬間、腹が決まった。

「よし、それなら警察を呼ぶぞ!」

「警察?なんで?あーもうこの○?□△め!勝手に呼べ呼べ!」

○?□△は聞き取れなかったけれど、どうせアホとかバカとかのヒンディー語だろう。

僕は席を立つと外に出た。道路をまたいで公衆電話の前まで行き、受話器を取りあげる。インドの「110番」が何番なのか知らなかったが、ちゃんと箱型の電話器本体に番号が刻印してあった。「100番」なのだ。一度知ったら忘れようがない番号だ。

僕は迷わず「100番」にコールした。知らないうちに店の従業員が3人もついてきて後方に佇み、僕の一挙手一投足を見守っているではないか。ざまあみろ。

電話がつながった。相手は女性で、ヒンディー語だ。僕はせき込んで英語で事情を説明する。

「今、カレー屋でチキンカレー定食を注文したら、ほかの客のはモモ肉なのに僕のだけ手羽先なんだ。それで料金をまけろと要求したら、ダメだと突っぱねやがって」

と、そこまで説明したところ、相手は「ちょっと待って」と言い置き、別の男性に代わった。英語がわからなかったのだろうか。

僕は再度、この係官に向かって事情を説明しだした。

「今、カレー屋でチキンカレー定食を注文したら、ほかの客のはモモ肉なのに僕のだけ手羽先なんだ。それで料金をまけろと要求したら、ダメだと突っぱねやがって、納得いかないので警察に電話しました」

向こうはときどき「フンフン」とか「ハアー」とかあまり気乗りのしない合いの手を入れながら僕の話を聞き、それから僕の名前やら国籍やらビザの種類やら質問してきた。

「そんなことより、すぐにパトカーをよこしてくれませんか?どうしても納得いきません」

「えーと、店の住所は?なに、知らない?店の名前は?えっ、わからない?それじゃあパトカーっていわれても、無理だねえ」

たしかに僕は怒りに任せて通報したため、自分の入った店の住所はおろか店名も知らなかった。振り向いて店の看板を見ると、ヒンディー文字がのたくっているだけでまったく参考にならない。

受話器を通して伝わってくる係官の冷静さがだんだんと僕の高揚した精神状態に染み入ってきたとみえ、気分が落ち着いてきた。

えーと、オレは今、なにやってるんだ?チキンカレーがモモ肉か手羽先かで店側ともめて警察に緊急通報しているってか?あっちゃー、なんとも小っ恥ずかしい状況ではないか。穴があったら入りたい。とにかく、どうやってこの場を収めようか。

受話器を握りしめたまま不安な気持ちで再度振り向くと、英語のわかる料理人が、マジかよ、こいつ、という恐怖と不安の混ざった視線を送り返してきたものの、ありがたいことに妥協案を出してきた。

「わかったわかった。じゃあ、25ルピー(75円)を20ルピー(60円)にまけるから!」

渡りに船とはこのことだ。

「本当か?本当に20ルピーにまけてくるれるんだな?」

「ああ、本当だ」

「よし、わかった。それなら手羽先のチキンカレーを食べる」

店側との交渉は妥結した。あとは握った受話器をどう置くかである。

「今、店側と話がつきました。サンキュー」

そう伝えて一方的に電話を切った。すぐに僕は店の従業員と肩を並べて店へ戻り、なにごともなかったかのように手羽先チキンカレー定食を完食して、20ルピー払って店を出た。

このようにインドは人を狂わせる国なのである。「暑い・辛い・しつこい」の辟易3点セットで襲い来るインドは手ごわい。冒頭、海外旅行ビギナーは要注意と記した意味がこれでおわかりであろうか。

禁断の鳥葬かとおもいきや、病死した牛をハゲワシに処分させていた

ちなみにあれから17年が過ぎ、僕は49歳になった。その後も海外へ行っているし、一年の半分しかしいまだに警察への「110番通報」は、ニューデリーでのカレー騒動の1件のみだ。このまま人生を終えてしまうとすると、僕と「110番通報」の関係は悲しすぎる。

 

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第5号より一部抜粋

著者/平田裕
富山県生まれ。横浜市立大学卒後、中国専門商社マン、週刊誌記者を経て、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発、現在一時帰国中。メルマガでは道中でのあり得ないような体験談、近況を綴ったコラムで毎回読者の爆笑を誘っている。
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