離宮に秘められた謎。京都の人に「徳川家」が嫌われている理由

 

一方、桂離宮は八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王(夫人は、キリシタン大名の娘)、智忠(としただ)親王(弟は曼殊院を創建した良尚法親王)父子によって創建されました。

智仁親王は、後陽成天皇の弟で兄から皇位を譲られるはずだったのですが、子がなかったので、一時豊臣秀吉の養子になっていた人物です。そのため、天皇になることを推薦された際、豊臣家を滅亡させた徳川幕府に推薦を取り消され、しいたげられました。智仁親王は、修学院離宮を造営した後水尾上皇の叔父さんに当たります(後水尾上皇は後陽成天皇の子です)。

智仁親王の夫人はキリシタン大名の娘だったので、兄・後陽成天皇に宣教師を紹介したりしていたようです。それがきっかけで、桂離宮には西欧手法が大量に用いられています。

桂離宮の創建当初からの建物である古書院は、月の名所として知られています。月桂の故事から名付けられた桂の土地柄月見台が設けられ、中秋の名月の月の出の方位に向けて建てられているとても風流な建築様式です。このような風流を主とした造りが特徴の茶室などの建物が庭園の苑路で結ばれていて、一周することで庭全体が鑑賞出来る回遊式庭園になっています。

建築では先細りの空間を造り遠近感を強調するパースペクティブの技法が使われていたり、極端に細長い空間を造り遠近感を強調するヴィスタの技法、人間にとって最も美しいと感じるバランス関係である黄金比率などを至る所に取り入れています。このような技法は同時代西洋で流行った技法で宣教師達によって伝えられたものだと考えられています(ザビエルが鉄砲を伝えた1582年から鎖国が始まる1639年までの間著しく西洋のものが取り入れられていた時代背景があります)。

その他も、ソテツの植栽、青と白のチェック模様の襖、ビロードの腰張り、キリシタン灯籠、十字型の手水鉢など西欧文化の影響と思われるもので満ち溢れています。

地図で見るとよく分かりますが、桂離宮は御所から見て西南の裏鬼門に造営されています。幕府からしいたげられた後水尾上皇と智仁親王の2人の皇族はくしくも鬼門と裏鬼門に離宮を造営させられているのです。

後水尾上皇は僧の最高の位である紫衣(しえ)を与える権限を奪われ、疎まれることになりました。智仁親王は、かつて秀吉の養子となった過去があるということで、徳川家から疎まれました。そのような人物たちは早めに朝廷の中枢から引きずり降ろしておこうとした徳川家の思惑が修学院離宮と桂離宮の造営に深く関わっていたことが伺えます。

いかがでしたか?

もちろん歴史ですので諸説あり、全てが正しいとか間違っているということはないのでしょう。ただ、このようなことを知りながら京都を訪れることは何も知らないで行くよりもはるかに楽しいものです。知識は何の変哲も無い日常生活に彩りを与え人生をより豊かで実りあるものにしてくれます。京都の魅力に興味を持ち、日本そのものを深く知ることで自分を見つめ直し、親や祖先を敬い、母国に感謝する気持ちが深まるきっかけになれば幸いです。

image by: Shutterstock

 

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