鹿児島県南九州市知覧町。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介されているのは、かつてこの町にあった小さな食堂の物語です。「特攻隊員」として散りゆく運命にある彼らを、私財を投げ打ってわが子同然に可愛がった女主人・鳥浜トメ。4月22日は彼女の命日にあたります。トメが笑顔で接し、そして最期は涙で見送った青年たちの一生とは、一体どんなものだったのでしょうか?
人物探訪: 特攻隊員の母、鳥浜トメ~蛍帰る
ラジオが9時を告げて、ニュースが始まった。その時、わずかに開いた表戸の隙間から、1匹の大きな源氏蛍が光る尾を引きながら、すーと店に入ってきたのであった。娘たちはほとんど同時に気がついた。
「お母さーん、宮川さんよ。宮川さんが帰ってきたのよ」
娘たちの叫びに、奥から出てきたトメは娘たちの指さすほうを見た。暗い店の中央の天井。その梁にとまって明るく光を放っている蛍を見つけた時、トメは息が止まるかと思った。部屋の隅にいた兵士たちも集まって、蛍を見上げた。「歌おう」とだれかが言った。みな肩を組み、涙でくしゃくしゃになりながら、「同期の桜」を歌った。歌はトメの好きな第3連に進んだ。
貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散らうとも
花の都の 靖国神社
春の小枝で 咲いて逢うよ
おれ、この蛍になって帰ってくるよ。
昭和20年6月6日、鹿児島県は薩摩半島の中程、知覧町にある富屋食堂でのことである。知覧で出撃を待つ特攻隊員たちはこの食堂に出入りし、なにくれと世話をやく女主人鳥浜トメを母親のように慕っていた。明日は死に行く少年たちのために出来ることと言ったら、母親代わりになって優しく甘えさせてやるしかない、そう思ったトメは私財をなげうって、特攻隊員たちに尽くしていた。
その前日、6月6日は宮川三郎軍曹の20歳の誕生日であった。トメは心づくしの料理を作って、誕生日を祝うと同時に、明日に控えた出撃のはなむけとした。途中、空襲警報が鳴って、みなで防空壕に入る。防空壕の中で、宮川は幽霊のまねをして、トメの娘礼子たちを怖がらせた。
防空壕を出ると、星のない暗い夜がそこにあった。街の灯りも灯火管制のために消されている。食堂の横には小川が流れ、藤棚とベンチがしつらえてある。漆黒の闇の中、小川の上を大きな源氏蛍が飛び交っていた。宮川の声がした。
「小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけれど、死んだらまた小母ちゃんのところに帰ってきたい。そうだ、この蛍だ。おれ、この蛍になって帰ってくるよ」
「ああ、帰っていらっしゃい」とトメは言った。そうよ。皆川さん、蛍のように光輝いて帰ってくるのよ、と心の中で言った。宮川は懐中電灯で自分の腕時計を照らして言った。
「9時だ。じゃあ明日の晩の今頃に帰ってくることにするよ。店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ」
「わかった。そうしておくよ」とトメが答えた。
「おれが帰ってきたら、みんなで『同期の桜』を歌ってくれよ。それじゃ、小母ちゃん。お元気で」
トメには別れの言葉がない。死にに行く人を送る言葉なんてこの世にあるのだろうか。宮川軍曹の後ろ姿は暗い夜道に消えていった。
少年兵たちのオアシス
昭和17年、知覧に飛行学校(大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場)が出来て、富屋が軍の指定食堂となった時、女主人トメは数え年41歳であった。指定食堂と言っても、健全で清潔で安心して軍人が立ち寄れる所だと推薦してくれるだけの事だった。
過酷な訓練に明け暮れ、たまの日曜日に外出しても、何の娯楽もない少年兵たちに、富屋はたちまち大人気のオアシスとなった。少年兵たちが壁にかかったメニューを見ていると、小母さんが中から出てきて「何か食べたいものはあるかね」と聞く。
「食べたいものなら、何でも作ってあげるよ。そのために日曜日には材料を用意してみんなの来るのを待っているんだからね。何でも言ってごらん」
少年たちがもじもじしていると、アンコロ餅はどうか、と聞く。少年兵たちの顔が緩むと、さっそく1個作って、この大きさなら何個欲しい、と聞く。「3個!」「おれも!」
ためらいながら「天ぷら」と言う少年兵には、「おとといあたりから海がしけていて、白身のいい魚がないから、イカとエビと野菜だけで我慢してくれる?」
「でも」
「でも、なあに」
「おれ50銭しか持ってないんだ。エビって高いんだろ」
「アハハ」とトメは笑う。
「男はおカネの事は言わないの」
着物や家財道具を売りながら、少年兵たちに食べさせてやるので、トメの家は少しづつ広くなっていった。
時には、「本日休業」の札を出して、少年兵たちに貸し切りにしてしまう。少年兵たちは畳の部屋に寝そべったり、トランプや将棋に興じたり、郷里に手紙を書いたり、小母さんの手料理に舌鼓を打つ。風呂で背中を流して貰うこともあった。
いま目の前にいるこの子が明日死んでしまうなんて
3月27日に娘の礼子が知覧の飛行場に動員され、木立の中に三角屋根の特攻隊の兵舎が作られている、という情報をもたらした。
翌日夜、小林威夫少尉が訊ねてきた。かつて教官として知覧に駐在していたことがあり、その時に下宿を探してやったりして、わが子同様に可愛がった青年である。「小母さん、小林です。久しぶりにお目にかかれてこんなうれしい事はありません」と言う。トメはいそいそと小林の好きなものを作ったが、小林は何ものどを通らない様子。
「今度はどちら方面に行くの」と聞くと、「小母さん、聞かないでくれよ」。トメは気がついた。もしかして、この人はあの特攻隊に選ばれたのだ…、いま目の前にいるこの子が明日死んでしまうなんて、自分の娘たちとあまり齢のかわらぬこの子が明日には死んでしまうなんて、そんなことってあるのだろうか。
この思い出を持ってあの世に行きます
できることなら、トメは小林少尉の肩を抱いて泣きたかった。しかしそれはできない。立ち上がって、廊下に出ると、かっぽう着の裾で涙を拭いた。涙はあとからあとから途切れることなく流れ落ちた。
翌日、小林少尉は最後のお別れに来た。昨夜より気持ちがふっきれたのか、むしろ淡々として見えた。
「小母さん、これまでのことはほんとうにありがとう。小母さんには実のおふくろよりやさしくしてもらった。忘れませんよ。この思い出を持ってあの世に行きます。達者で長生きしてください」
トメは必死に涙をこらえながら、手作りのおはぎを渡し、「部下の下士官の方へさしあげてください」と言うのがやっとだった。小林少尉は最後の敬礼をし、トメは黙って頭を下げた。少尉はゆっくり回れ右をして、飛行場の方に戻っていった。
そうだ、せめて親御さんにあの方が立派に旅立っていったことをお知らせしなければならない。手は震え、文脈は乱れ、涙はとどめなくしたたり落ちる。
「よみにくいペン字 おゆるし下さい ただ いそいで お知らせまで」
父親の名前は知らなかったので、「小林少尉殿の父上様」と結んだ。それからは何度もこうした悲しい手紙を書かなければならなかった。
「ぼくは朝鮮人です」
光山文博少尉は京都薬学専門学校を卒業し、昭和18年、特別操縦見習士官を志願し、知覧で6ヶ月の速成教育を受けてパイロットとなった。日曜日毎に富屋にやってきたが、無口でどこか寂しい人柄だったので、トメはなるべく明るく接しようとした。
彼は最初から「ぼくは朝鮮人です」と言っていた。元の名を卓庚鉉と言い、幼い時に父母とともに日本に渡ってきたのだった。当時の日本人の中には朝鮮人に対する差別意識を持った者も多かったので、トメは光山をよけい大事にしてわが子同様に可愛がった。
半年のちに知覧を卒業して、各地の部隊を転々として、行く先々から「知覧の小母ちゃん、元気ですか」とはがきをよこした。その光山が昭和20年5月の初め、「小母ちゃーん」と呼びながら、富屋に戻ってきた。トメはすぐに事情を察した。その頃に知覧に戻ってくるのは、特攻隊員になった者だ。それから光山は毎日のように入り浸った。
光山の母親はその前年の暮れに亡くなっていたという。息子が日本でばかにされないようにと、必死で働いて学歴をつけさせたのであろう。また息子の方も特別操縦見習士官を志願したのは、立派な軍人姿を母親に見せてやりたかったのだろう。
今生の別れの歌アリラン
5月10日の夜、光山は「小母ちゃん、いよいよ明日出撃なんだ」とボソリと言った。
「長いあいだありがとう。小母ちゃんのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。でも、おれは朝鮮人なんだ。長いあいだ、ほんとうに親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」
「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」
トメはそっと目頭を押さえた。
「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」
「まあ、光山さん、あんたが歌うの」
孤独な光山が歌を歌う姿は一度も見たことがなかった。光山はあぐらをかき、涙を隠すためであろう、戦闘帽のひさしをぐいと下げて、びっくりするような大きな声で歌い出した。
アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
アーリラン峠を越えていく
わたしを捨てて行くきみは
一里もいけず 足いたむ
トメも娘たちもこの歌を知っていたので、一緒に歌い出したが、途中で泣き出してしまった。光山少尉の今生の別れの歌だった。それは日本では隠さなければならなかった彼のアイデンティティを示す歌だった。明日は出撃し、敵艦に体当たりする。祖国を守るために。その祖国とは日本ではない。日本と運命をともにしていた朝鮮だ。
昭和18年の朝鮮での特別志願兵の応募者は30万人以上、採用6,300人の50倍近くだった。大戦中は24万2,341人の朝鮮人青年が軍人・軍属として戦い、2万1,000余柱が靖国神社に祭られている。特攻隊員として出撃・散華した朝鮮人軍人は光山少尉を含め14名である。
観音像の建立
戦争が終わり、年が変わって昭和21年。知覧飛行場で最後の特攻機が燃やされた際、トメは近くに落ちていた棒杭を地面に立てて、娘たちにこう言った。
「さ、これが今日からあの人たちのお墓の代わりだよ。たったひとつしかない命を投げ打って死んでいったんだよ。それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけないことなんだよ」
特攻隊を称えるだけで「軍国主義者」のレッテルを貼られる時代だった。墓など作ったらすぐ壊されてしまう。こんな棒杭なら壊しに来る人はいないだろう。その代わりに毎日お参りにくるから許してくださいね、とトメと娘たちは手を合わせた。
昭和25年、朝鮮戦争の特需で経済復興も始まり、特攻隊への逆風が静まっていた。トメは毎日の棒杭参りを続けながら、昔なじみの知覧町長のもとに通っては特攻隊員たちのための観音像建立の請願を続けた。自分の費用で建てれば、すぐにでも実現できたが、それでは慰霊が私的なものになってしまう。特攻隊員たちはお国のために命を捧げたのだから、その慰霊は公に行われなければならなかった。
昭和30年9月28日、知覧飛行場の一角に観音像が完成し、その除幕式の日にトメは像の前の手水鉢を寄進した。それからトメは毎日ガムやキャンデーを持って、観音像の所へ行き、遊んでいる子供たちを集めては、一緒の掃除をする。それから「はい、それでは観音様のお下がりをいただきましょう」と言って、ガムやキャンデーを配る。こうすることによって、自分の死後も、この子供たちの中から、観音像をお守りしてくれる人が育つだろうと考えていたのだ。さらにトメは観音像に至る道に石灯籠を寄進する運動を進めていった。
昭和62年2月、特攻隊の生き残りでトメに励まされた人々の努力によって、知覧特攻平和会館が開館した。修学旅行など参観者は多く、たとえば平成12年には54万人にも及んだ。
4月の蛍
平成4年4月22日夕刻、トメは90歳直前で一生を終えた。「特攻の母、鳥浜トメ死す」のニュースは新聞やテレビに流れ、富屋は弔問客や取材陣でごった返した。通夜の夜、ようやく遺族が一息入れた所に、1匹の蛍が光る尾を引いてトメの柩のある部屋をスーッと横断していった。
「見たか」
「見た」
「蛍だったよな」
「そうだったよな」
4月の下旬に蛍が飛ぶはずがない。それも部屋を横切っていくなんて。しかし、居合わせた人々は確かに見たのである。
それは蛍になった宮川軍曹が「小母ちゃん」を迎えにきた姿なのだろうか。それともトメ自身が蛍となって、息子のように可愛がっていた大勢の特攻隊員たちのもとに飛んでいったのだろうか。
文責:伊勢雅臣
image by: Wikimedia Commons
『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
著者/伊勢雅臣
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