中国に屈せず。日本時代の「大和魂」で台湾を改革した許國雄の生涯

2017.01.17
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by yomeronpou
 

「瑞竹」の縁起

東方技術学院の正門正面に「瑞竹」と呼ばれる巨大な竹の一群がある。これは日本の皇室に関わるもので、大正12(1922)年に昭和天皇がまだ皇太子の頃、12日間台湾を回られたときに、高雄まで足を伸ばされた。さらに隣の屏東(へいとう)へも行かれる予定であったが、その地に伝染病が蔓延したため、行啓反対の声が強くあがった。しかし殿下は「そこもわが地わが民がいる」と言われて、自らの意思を示された。

伝え聞いた屏東の民は感激して、嘉義の山から蓬莱竹を9本苅ってきて天幕を作り、家々に日の丸を掲げて盛大にお迎えした。竹は枯れて淡黄褐色に変色し、さらに芽が出ないように逆さまに地面に差してあったのに、不思議な事に行啓の時には、小さな新芽が出ていた。植物学者である殿下はこの新芽に目をとめ、優しく撫でられた。殿下が帰られてから、この新芽からぐんぐん成長を始めたのである。

地元の人は、不思議な事として地面に植え直した所、大きな竹林に成長したので、瑞祥だとして「瑞竹」と呼ぶようになった。しかし國雄は戦後の国民党政府の反日政策からこの瑞竹が苅られてしまう恐れがあると思って、その一部を密かに東方工芸専科学校の正門前に移植したのである。戒厳令下で国民党政府に知られたら、「親日的」としてただでは済まない危険な行為であった。

「大和魂」対「袖の下文化」

1972年7月、國雄は教育会の理事長に任命された。教育会とは、日本で言えば教育委員会と教員組合を合わせたような強力な組織である。その直後、12月には教育会の推薦で、日本の参議院議員にあたる国民大会代表に立候補することになった。冷遇されていた教員の待遇改善などの公約を掲げ、選挙戦に臨んだところ、トップ当選となった。

その後、教育会理事長と国民大会代表とも、14年の長きにわたって務めた。國雄は教育事業、教育改革を自らの使命として取り組んできたが、その間、常に念頭にあったのは日本時代に培った大和魂」だった。

ある時、教科書会社が國雄に賄賂を持ってきたことがあった。教育会の理事として、自分の会社の教科書を使って欲しいと頼みに来たのである。日本統治時代の台湾ではこうした賄賂はほとんど無かったが、戦後は大陸の「袖の下文化」が持ち込まれ、台湾中を汚染していた。

私は日本教育でそれも九州の久留米で勉強した九州男児だ。こんなものを受け取れるか」と言って、國雄は賄賂を突き返した。國雄の世代の台湾人にとって、「日本教育」を受けたというのは、一つの自慢だった。お金はあまり貯まらなかったが、清く正しく生きてこられた理由の一つは日本統治時代に受けた日本教育のお陰だと、國雄は言っている。

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