中国に屈せず。日本時代の「大和魂」で台湾を改革した許國雄の生涯

2017.01.17
by yomeronpou
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第2次世界対戦後、日本に変わり中華民国軍が上陸した台湾の混乱については先日掲載の記事「犬が去り豚が来た。日本撤退後の台湾を襲う大陸からの招かざる客」で詳しくお伝えしました。そんな激動の時代において、日本で受けた教育で身につけた「大和魂」を忘れず、台湾の政治改革に正面から挑んだ偉大な政治家の名をご存知でしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、今も台湾に語り継がれる許國雄のエピソードが紹介されています。

許國雄 ~台湾人の大和魂

1947年3月6日、台湾南部の高雄。高雄市立病院の主任医師、と言ってもまだ25歳の許國雄は、市参議員(市会議員)である父に頼まれ、救護隊として市役所で待機していた。

日本の敗戦後、大陸から渡ってきて台湾を支配した中国国民党の役人たちは台湾の物資を横領して上海で売り払ったため、猛烈なインフレが全土を襲った。兵隊たちによる台湾人への略奪・殺人・強姦も日常茶飯事だった。日本統治下で安定した法治社会を経験していた台湾人たちの不満がたまっていた。

その不満に火をつけたのが、2月27日、台北で煙草を売っていた老婆が、専売局の役人たちに銃で激しく殴打された事件だった。翌28日、専売局に抗議に押し寄せた群衆にいきなり憲兵隊が機関銃で発砲し、多くの犠牲者が出た。これを機に台湾全土で台湾人による暴動が始まった228事件である。

高雄市では市長らが平和的に事をおさめようと、高雄要塞司令部に交渉に行っていたが、それとは行き違いに要塞司令官は兵を市役所に派遣して、機関銃で攻撃を加えさせた。銃弾は市役所内に容赦なく降り注ぎ、その一つが許國雄をかばっていた父の頭を貫いた。

「やられた。國雄(くにお)、後を頼む」と父親は日本語で言うと倒れた。國雄はとっさに父とともに倒れ、死んだふりをした。

弟二人も捕まった

機関銃掃射をした後、兵隊たちは転がっている死体を一人づつ銃剣で突き刺し、生き残りがいないか、確認を始めた。國雄を見つけた兵が「一人、生きているぞ」と北京語で言って、銃口を頭に突きつけた。國雄は震える手で、左腕につけている赤十字の腕章を指した。それが國雄を救った。

当時、市役所にいた三十数名はすべて殺され、赤十字の腕章をつけた國雄ともう一人の医師だけが命は許されて牢に入れられた。3日後、市立病院の院長が要塞司令部側とかけあって二人を救い出した。国民党の幹部も市立病院の世話になったいたので、そのコネが効いたのだった。

ようやく家に帰ると、家では父親の葬儀の真っ最中だった。そこに今度は台北から高雄へ帰ろうとしていた弟二人が国民党に捕まって処刑されるという噂が飛び込んできた。列車の他の乗客はすぐ殺されたが、高雄出身の二人は見せしめのために故郷に連れてきて処刑しようというのである。國雄はたまたま要塞司令官の母の主治医をしていたので、その老婦人に必死に頼みこんで、なんとか弟たちを助けてもらった

「九州男児」

許國雄は大正11(1922)年、台湾海峡中の澎湖諸島に生まれた。父は教員で、昭和元(1925)年に高雄市に転勤したので、國雄はそこで堀江尋常小学校に入った。ここでは日本人子弟と日本語の得意な台湾人子弟が机を並べて学んでいた。國雄はそこからさらに高雄中学に進学した。

中学卒業後、國雄は九州歯科医学専門学校(現在は九州歯科大学)で歯学を、さらに九州高等医学専門学校(現在の久留米大学医学部)で医学を学んだ。小倉市と久留米市で学生生活を送ったので、國雄は「九州男児だと自称している。

在学中に大東亜戦争が勃発し、國雄は「欧米の支配からアジアを解放する時が来た」と喜んだのもつかの間、昭和20年に敗戦。日本は台湾を放棄し、中華民国が接収することとなった。

國雄は一夜にして、敗残の大日本帝国臣民から戦勝国・中華民国の国民となったのだが、昨日まで一緒に空襲の際には防空壕に逃げ込んだ日本の友人たちのことを思うと、そんな気持ちの切り替えはできなかった。

連合国軍の手配した旧日本軍の駆逐艦に乗って、台湾に帰った。規律正しい日本軍に代わってやってきた中華民国軍はみすぼらしく、裸足で天秤棒に鍋釜を下げている兵も多かった。ここから台湾人の悲劇が始まったのである。

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