異国に伸びた日本人の根っこ。ブラジル日系人、苦難と栄光の歴史

 

出稼ぎ

日本からブラジルへの移民は明治41(1908)年に始まり、戦前戦後を通じて25万人にのぼるが、その半分以上にあたる13万人が1926年から1935年までの10年間に集中している。

これは大正12(1923)年の関東大震災、昭和5(1930)年から翌年にかけての昭和大恐慌という国内の経済的困窮に迫られたこと、国外からは大正13(1924)年に米国で排日移民法が成立して道をふさがれ、ブラジルが新たな移民の受入れ先になったことによる。

しかし、1934年にはブラジル政府が日本移民の入国制限を始め、またそのころには満洲が新たな移住先となっていたことで、ブラジルへの移民は激減した。ブラジルへの移民は自由な選択というよりも、国内の経済的逼迫と国際政治の風向きによって、やむなく新天地を求めた、という側面が強かったようだ。

したがって戦前の移民20万人のうち、85%は何年かブラジルで働いて金を貯めたら帰国しようとする出稼ぎ意識でやってきたのである。

日系移民の苦難

しかし移民がたどり着いたブラジルは、豊かで平和な新天地とはほど遠かった

ブラジルは土地も肥沃で日本の日雇い労働者の2倍も稼げるという話に惹かれてやってきたのだが、大規模コーヒー農園で働いても、低賃金から食費を引かれるとほとんど残らない。やむなく自力で低湿地を切り開いて米を作り始めても食べるのに精一杯、雨期には蚊が大量発生してマラリアの病魔に襲われたりもした。

社会的にも「かつてのブラジル人エリートは常に人種差別者だった。ブラジルが発見された当時、下等民族とみなされたインディオが大量虐殺され、黒人は動物、商品として非人間的な扱いを受け、その次は移民、特にアジア系移民が標的にされた」と評される有様だった。

政治的にも不安定で、1924年には6,000の革命軍が20日にわたってサンパウロ市内を占拠し、それを3万の政府軍が包囲して激戦を展開する、というような物騒な国だった。

言葉も解さず、政治力も持たない日本人移民は農村に散在していたが、革命軍の敗残兵は格好の餌食としてそうした植民地を襲って、略奪を行った。移民たちは結束して銃撃戦を繰り広げて自衛したが、無残に撃ち殺される人々も少なくなかった。

そんな苦難の中でも、日本語学校が集団地ごとに作られ戦前だけで500校近くあったという。ブラジルで生まれた子供たちも、やがて日本に帰った時、普通の日本人としてやっていけるように、という親心からだろう。

日系移民たちは互いに助け合って、共同体として生き延びるしかなかった。そんな共同体を支えたのが、勤勉誠実正直という日本人の根っこ」だった。そして苦難の中で生き抜くことで、日本人の根っこは移民たちの心の中で、より太く深く成長していったのではないか。

そうした勤勉さで成功した移民の中からは、大農場や工場、貿易会社を営む人々も現れるようになった。

日系移民への弾圧

1930年に軍事クーデターを成功させたヴァルガスが大統領となった。ヴァルガス独裁政権はブラジルでのナショナリズムの高揚を狙って、初等、中等教育でのポルトガル語以外の外国語の学習を禁じた。1938年にはブラジル全土の日本語学校が閉鎖され、1941年には日本語新聞禁止令によって全邦字紙が停刊となった。

1941年12月、大東亜戦争が勃発すると、日系人が築いてきた大規模農場商社工場などの資産が差し押さえられた。日系社会の指導者層が検挙され、拷問を受けた。

1943年7月に、サンパウロの外港・サントス港沖でアメリカとブラジルの汽船合計5隻がドイツの潜水艦によって沈められると、日独伊の移民に対して24時間以内にサントス海岸部からの立ち退きを命ぜられた。日系移民も女子供老人に至るまで手回り品だけをもって、移民収容所まで歩かされた。

その当時の人々の心境を、移民画家・半田知雄氏は次のように描いている。

多くのものが警察に拘引され、留置場にたたきこまれ、ときには拷問されたという噂があり、不安がつのればつのるほど、この状態を脱出するための未来図は、東亜共栄圏内に建設されつつあるはずの「楽土」であった。

 

民族文化を否定され、そのうえ日常生活のうえで、一歩家庭をでれば、戦々恐々として歩かねばならないような息苦しさに、ブラジルに永住する心を失った移民たちは、日本軍部が約束した共栄圏のみが、唯一の生き甲斐のあるところと思われた。
『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移民の戦後70年』深沢正雪・著/無明舎出版

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