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異国に伸びた日本人の根っこ。ブラジル日系人、苦難と栄光の歴史

かつて「新天地」を求め、ブラジルへ渡った日本人たち。しかし、彼らが直面したのは差別や弾圧と隣り合わせの決して甘くはない現実でした。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では著者の伊勢雅臣さんが、ブラジル日系移民の苦難に満ちた歴史を振り返りながら、それらを乗り越えるパワーの源となった「日本人としての根っこ」について考えます。

ブラジル日系移民、一世紀の苦闘

筆者がアメリカに留学していた時に、ブラジルから来た留学生から「ブラジルでは日系人は人口の1%しかいないのに大学生は10%も占める」と聞いて、嬉しく思った事がある。

たとえばサンパウロ大学は、ブラジルのみならずラテンアメリカ世界での最難関大学であり、多くのブラジル大統領を出しているが、そこでの日系人学生は14%を占めている。

筆者が嬉しく思ったのは、日本人が優秀だ、という事ではない。ブラジルに移住した日本人も、親は子のために尽くし、子もその恩に応えて頑張る、という日本人らしさを発揮しているのだろうと想像したからだ。

私自身も一度、ブラジルに出張して仕事をした事があるが、多くの日系人社員が企業の幹部を務め、その誠実さと有能さは、日本からの駐在員に勝るとも劣らないと実感した。ブラジル国内でも日系人はいまや社会的に尊敬されている

親が子を思い子が親の恩に応えるという、いかにも日本人らしい成功物語が地球の裏側で展開されたと私は受け止めていたのだが、それがいかに浅薄な理解であるかを、深沢正雪氏の『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移民の戦後70年』を読んで知った。

深沢氏は長らくサンパウロ市の邦字紙「ニッケイ新聞」の編集長を勤め、この本でも現地で集めた多くの史実を紹介している。それらを通じて、ブラジルの日系移民が今日の地位を得たのは、一世紀もの間、幾多の苦難を乗り越えてきた苦闘の結果である事がよく分かった。

そしてその苦闘ぶりにこそ、日本人らしさが現れていることも。

出稼ぎ

日本からブラジルへの移民は明治41(1908)年に始まり、戦前戦後を通じて25万人にのぼるが、その半分以上にあたる13万人が1926年から1935年までの10年間に集中している。

これは大正12(1923)年の関東大震災、昭和5(1930)年から翌年にかけての昭和大恐慌という国内の経済的困窮に迫られたこと、国外からは大正13(1924)年に米国で排日移民法が成立して道をふさがれ、ブラジルが新たな移民の受入れ先になったことによる。

しかし、1934年にはブラジル政府が日本移民の入国制限を始め、またそのころには満洲が新たな移住先となっていたことで、ブラジルへの移民は激減した。ブラジルへの移民は自由な選択というよりも、国内の経済的逼迫と国際政治の風向きによって、やむなく新天地を求めた、という側面が強かったようだ。

したがって戦前の移民20万人のうち、85%は何年かブラジルで働いて金を貯めたら帰国しようとする出稼ぎ意識でやってきたのである。

日系移民の苦難

しかし移民がたどり着いたブラジルは、豊かで平和な新天地とはほど遠かった

ブラジルは土地も肥沃で日本の日雇い労働者の2倍も稼げるという話に惹かれてやってきたのだが、大規模コーヒー農園で働いても、低賃金から食費を引かれるとほとんど残らない。やむなく自力で低湿地を切り開いて米を作り始めても食べるのに精一杯、雨期には蚊が大量発生してマラリアの病魔に襲われたりもした。

社会的にも「かつてのブラジル人エリートは常に人種差別者だった。ブラジルが発見された当時、下等民族とみなされたインディオが大量虐殺され、黒人は動物、商品として非人間的な扱いを受け、その次は移民、特にアジア系移民が標的にされた」と評される有様だった。

政治的にも不安定で、1924年には6,000の革命軍が20日にわたってサンパウロ市内を占拠し、それを3万の政府軍が包囲して激戦を展開する、というような物騒な国だった。

言葉も解さず、政治力も持たない日本人移民は農村に散在していたが、革命軍の敗残兵は格好の餌食としてそうした植民地を襲って、略奪を行った。移民たちは結束して銃撃戦を繰り広げて自衛したが、無残に撃ち殺される人々も少なくなかった。

そんな苦難の中でも、日本語学校が集団地ごとに作られ戦前だけで500校近くあったという。ブラジルで生まれた子供たちも、やがて日本に帰った時、普通の日本人としてやっていけるように、という親心からだろう。

日系移民たちは互いに助け合って、共同体として生き延びるしかなかった。そんな共同体を支えたのが、勤勉誠実正直という日本人の根っこ」だった。そして苦難の中で生き抜くことで、日本人の根っこは移民たちの心の中で、より太く深く成長していったのではないか。

そうした勤勉さで成功した移民の中からは、大農場や工場、貿易会社を営む人々も現れるようになった。

日系移民への弾圧

1930年に軍事クーデターを成功させたヴァルガスが大統領となった。ヴァルガス独裁政権はブラジルでのナショナリズムの高揚を狙って、初等、中等教育でのポルトガル語以外の外国語の学習を禁じた。1938年にはブラジル全土の日本語学校が閉鎖され、1941年には日本語新聞禁止令によって全邦字紙が停刊となった。

1941年12月、大東亜戦争が勃発すると、日系人が築いてきた大規模農場商社工場などの資産が差し押さえられた。日系社会の指導者層が検挙され、拷問を受けた。

1943年7月に、サンパウロの外港・サントス港沖でアメリカとブラジルの汽船合計5隻がドイツの潜水艦によって沈められると、日独伊の移民に対して24時間以内にサントス海岸部からの立ち退きを命ぜられた。日系移民も女子供老人に至るまで手回り品だけをもって、移民収容所まで歩かされた。

その当時の人々の心境を、移民画家・半田知雄氏は次のように描いている。

多くのものが警察に拘引され、留置場にたたきこまれ、ときには拷問されたという噂があり、不安がつのればつのるほど、この状態を脱出するための未来図は、東亜共栄圏内に建設されつつあるはずの「楽土」であった。

 

民族文化を否定され、そのうえ日常生活のうえで、一歩家庭をでれば、戦々恐々として歩かねばならないような息苦しさに、ブラジルに永住する心を失った移民たちは、日本軍部が約束した共栄圏のみが、唯一の生き甲斐のあるところと思われた。
『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移民の戦後70年』深沢正雪・著/無明舎出版

勝ち組と負け組

1945年8月14日(時差により日本時間とは1日ずれる)、祖国敗戦の報がもたらされた。いつかは帰国すると願っていた移民たちにとって、敗戦は帰る場所が無くなってしまう事を意味した。

その心理的抵抗に加えて、「天皇の神聖な詔勅が、ポルトガル語で新聞にでたというのが、すでにおかしい」とか、「20万同胞の在住するブラジルに、正式な使節が派遣されないという理由はない」と多くの人々は考え、実は日本が勝ったという噂が広がった。移民の7、8割がこれを信ずる「勝ち組」に属した。

一方、移民社会のリーダーたちは、戦時中の検挙や資産差し押さえに懲りて、ブラジル政府を恐れ、敗戦を受け入れて「負け組」となった。彼らは勝ち組がやがてブラジル政府批判を始めて、自分たちはその巻き添えを食うという心配から、勝ち組を抑えにかかった

戦前には大日本帝国の国威発揚を説いていた指導者たちが、手のひらを返すように敗戦を説き始めたことに、勝ち組の人々は裏切られたと感じた。負け組からは「負けたんだからもう日の丸はいらない」などという発言まで飛び出したという。

「日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです」

負け組の筆頭と目された脇山甚作・退役陸軍大佐は勝ち組の若者4人に暗殺された。実行犯の一人、日高徳一はこう語っている。

僕等はなにも勝った負けたのためにやったんじゃない。あくまで日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです。脇山大佐には申し訳ないが、彼個人になんら恨みがあったわけではない。
(同上)

日高はすぐに自首して、牢獄島で2年7ヶ月を過ごしたが、その後、官選弁護士からは「目撃者はいない状況では犯罪は成立しない」から釈放だ、と言われた。日高は「それは違う。人の家庭をグチャグチャにしたんだから、こんなことで釈放では大義名分が通らない」と言い張り、約30年の量刑を言い渡された。

結局、10年で釈放されたのだが、「日本人が普通の生活をしていたらそれだけで模範囚ですから、どんどん刑期が短縮されちゃうんですよ」。テロリストですら純真な日本の心根を持っていた。

こうした事件を機に、ブラジル官憲が勝ち組と見なした3万人以上、すなわち在留邦人の7人に1人が取り調べを受けるという捜査を行った。その中では、「御真影天皇陛下の写真を踏んだら留置所から出してやる」と言われた移民もおり、それを拒否しただけで監獄島に送られる、という弾圧も行われた。

「日本を愛する心を子どもに植え付けるために」

戦後、4、5年も経つと「戦争は終わり、日本は負けた。でも日本は残っている。引き揚げ者であふれ、食糧難の日本には帰れる場所はない。それに、子供はブラジルで大きくなってしまった。ブラジルに骨を埋めざるをえないのか」という諦めが広がっていった。

しかし、その諦めをバネにして「ここで子供にしっかりと勉強させて良い大学にいかせ社会的に立派な立場にさせよう。そうすることで戦争中に自分たちをバカにしてきたブラジル人を見返さなくては」という志につながった。サンパウロ大学をブラジルの東大」と呼んで、親は身を粉にして働き、子供を送り込んだ。

勉学ばかりでなく、「日本を愛する心を子どもに植え付けるために日本語教育に力を入れよう」と考え、日本語教育や日本文化継承に全身全霊を捧げた人々も現れた。

拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』でも、江田島の旧海軍兵学校を訪れた17歳のナタリア・恵美・浅村さんが、英霊の心を偲んで書いた「げんしゅくな気持ち」という一文を紹介した。

ナタリアさんは、サンパウロ市の松柏(しょうはく)学園の生徒で、この学園は1年に一度、20~30人の生徒を日本に送り、生徒たちは約40日をかけて沖縄から北海道までを回っている

地球を半周する飛行機代と40日もの宿泊費は送り出す親にとって相当な負担であるが、「自分のルーツに誇りを持ってほしい」「美しい日本を見てきてほしい」という日系人父兄の切なる願いが40年にもわたる使節団の派遣を支えてきたのである。

このように祖国は敗れ、帰国も絶望的になったという境遇の中でも前向きな精進を続ける所に、日本人の根っこからのエネルギーが発揮されている。

「我々は日本語や日本文化の灯を絶やさなかったから生き残った」

深沢氏は勝ち組系の二世長老から聞いた次のような発言を紹介している。

戦後、認識派(JOG注:負け組)の子孫はどんどんコロニア(JOG注:日系人社会)から離れ、同化して消えていったが、我々は日本語や日本文化の灯を絶やさなかったから生き残った。そして、むしろそれが評価される時代になった。
(同上)

日本人としての「根っこ」を失えば、圧倒的多数のブラジル人に同化吸収されてしまう。逆に日本語や日本文化の根っこを大切に育ててきた人々はブラジル社会に独自の貢献ができそれが評価される。

ブラジル法学界の権威である原田清氏は編著書『ブラジルの日系人』の中で「ニッケイは日本人の魂をもってブラジル人として振る舞う」人々で、「本国ではもう見られないような(伝統的な)日本文化をわかちがたい絆として引き継いでいる」と書いている。

深沢氏が「どんな伝統的な日本文化が次の世代に継承されるのか」と原田氏に問うと、「勤勉真面目責任感義理などが残ると思う」と答えた。

これらの徳目こそ、日本人の根っこそのものだろう。本国・日本では占領軍とその後の左翼思想による歴史の断絶によって、我々の根っこがほとんど断ち切られてしまったが、ブラジルの日系人は意図的な努力で根っこを太く深く伸ばし、そこから湧き出るエネルギーによってブラジル社会で称賛される地位を築いたのである。

ブラジルの日系人の苦闘の物語は二つの事を我々に示してくれている。

第一に、日本人の根っこは、ブラジルという異境の大地においても、しっかりと太い根を伸ばし、立派な幹を育て、美しい花を咲かせたことだ。この事実は、日本人の根っこが世界に通用する普遍性を持っていることを示している。いまや世界各地で暮らし、仕事をしている在外邦人にとって貴重な示唆である。

第二に、ブラジルの日系人が、日本人の根っこからのエネルギーによって苦難を乗り越えその過程でまた根っこを太く深く伸ばした事である。これは防衛、経済、少子高齢化など多くの苦難に直面している日本列島に住む日本人に希望を指し示している。

現代の日本人全体にこのような貴重な教訓を示してくれた在ブラジル同胞の一世紀の苦闘に深甚の敬意と感謝を捧げたい。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

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購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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