え? そんなの、『古事記』がもう1300年前に書いてるよ。

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以前掲載の「お父さんの『父』は『尊し』の『とお』。こんなに素敵な大和言葉」が好評を博した、古事記を学ぶ「華都子塾」を主催されている今野華都子さん。今回、無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、そんな今野さんによる「『古事記』からみる『修行』と『修業』の違い」が紹介されています。

「修行」と「修業」の違い 今野華都子さんのブログに学ぶ

「修行」と「修業」は具体的にどう違うのでしょう? 「修行には3つの意味があります。

  • 悟りを求めて仏の教えを実践すること
  • 一切の欲望を断って心身を鍛錬・浄化すること
  • 技芸などを磨き練って自己を鍛えること

とあります。それに対して「修業」とは

  • 学芸・技芸を習い修めること

とあります。元々は「行」という仏教用語から派生した「修行」という言葉は、主に「悟りを求めて実行する行い」という意味合いの場合に使用されます。そして「修業は学問や技能を会得した場合に使用されます。

古事記の稲羽の白兎のお話の中にも、この修行と修業があります。

オオクニヌシは、お兄様の八十神の嫉妬にあい、二度も殺されます。その時、母神から「お前が、殺されないようにしなさい」と言われ根の国に修業に行きます。そこでスサノオから授けられものは、この世を治めるための方法、学問、手段(生太刀、生弓矢)。それを愛で使いこなせる人物であるかの修行でした。

スセリ姫という協力者を得て、ヘビやムカデや蜂の部屋に入れられ、意思の通わぬものも殺さず生かす技を学び修業します。

鏑矢取りの試験では、火を放たれ、火に周りを囲まれもはやこれまでと覚悟をした時、ネズミの声が「内はほらほら、外はスブスブ」と聞こえて助かりますが、これは危機の時にも慌てず心を落ち着かせ最善の方法を見つけ出す修行でした。

そして最終試験のシラミ取りの場面は、まさに修業が修行となっていく場面です。スサノオはオオクニヌシに自分の頭のシラミを取らせます。オオクニヌシは喜んでシラミを取りムカデを食い潰し吐き出します。

スサノオはそれを見て「心に愛しくおもい寝ました」と書いてあります。そしてこの世を治めるのに相応しいやつだと。大国主命(くにのあるじ、ちゅうしんになるもの)の意味を持つ名前を授けます。

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