野球を楽しむという気風の欠如
高野連も、今大会から「タイブレーク制度」
それよりも、「選手ファースト」
明治時代、
文明開化で欧米の文物が一気に日本に流れ込んだとき、その受け入れの窓口となったのは大学だった。 スポーツも例外ではない。
まず大学生が、欧米から伝播したスポーツと取り組んだ。
そして彼らが教師となり、全国の高等学校、中学校へと野球を広げた。 残念ながら、そこで、ボタンの掛け違いが起こった。「スポーツ」が「体育」 と混同されてしまったのだ。
教育機関で行われる身体運動は、すべて「体育」である。「
知育」「徳育」と並び、若者や子供たちの身体を鍛える「体育」は、 もちろん教育に欠かせない。その心身を鍛える「体育」 のひとつの手段として「スポーツ競技」が用いられることは多い。
「体育」は教育の一環として指導者から命じられ、
心身を成長させるために強制的にやらされるものである。一方「スポーツ」は、 誰からも強制されず、自ら好んで自主的に取り組むものだ。
そして高度な技量を身につけたスポーツマンは、
入場料を取って観客に「見せる」こともできるようになり、必然的にプロになる。
以上のシンプルな原理を頭に入れておきさえすれば、
高校野球甲子園大会に露呈している矛盾や問題点がすべて理解できる。 要するに高校野球は「体育」を行うべき高等学校という教育機関で「スポーツ」 を行っているのだ……。
もっと端的に言えば、「体育」の基本は軍事教練である。
戦前の早稲田大学野球部の神話的指導者=飛田穂洲が「
昨今のレスリング、アメフト、ボクシング、
その川淵は最近、『黙ってられるか』(新潮新書、18年8月刊)を上梓した。
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※本記事は有料メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2018年9月3日号の一部抜粋です。初月無料の定期購読のほか、1ヶ月単位でバックナンバーをご購入いただけます(1ヶ月分税込864円)。
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