5月9日からの4日間に渡る米国訪問を終え、12日に帰国した菅義偉官房長官。今回菅長官に課された任務は対北朝鮮交渉ルートの確認とされていますが、なぜそのような役割が、国の危機管理をあずかる立場の官房長官に託されたのでしょうか。元全国紙社会部記者の新 恭さんが自身のメルマガ『国家権力&メディア一刀両断』で、その裏側を探っています。
菅官房長官が訪米した真の目的
安倍首相が北朝鮮の独裁者、金正恩に会いたいと言い出した。条件は付けないという。つまり拉致問題に進展があるなしに関わらず、直接会って話すのだと、思いつめている。
いったい何があったのか。あれほど、「対話より圧力」を貫いてきたというのに。
「制裁を緩めるな」と訴える拉致被害者家族の気持ちは複雑だろう。トランプ大統領への「抱きつき外交」で世界に名を馳せる安倍首相が中途半端に方針転換しないかと心配しているに違いない。
だが、日本政府は金正恩にアプローチする交渉ルートを持っているのだろうか。小泉訪朝は、田中均氏が外務省アジア大洋州局長だったころ、「ミスターX」とのチャネルをつくったから実現した。いまはそんなパイプがあるとは思えない。
余談だが、田中均氏は安倍首相から蛇蝎のごとく嫌われている。というのも、かつて田中氏が毎日新聞のインタビューで、こう語ったからだ。
「安倍首相の侵略の定義や河野談話、村山談話をそのまま承継するわけではないという発言などで、いわゆる右傾化が進んでいると思われ出している。中韓に日本を攻撃する口実を与えてしまっているという面はある」
安倍首相の歴史認識が中国や韓国に日本攻撃の格好の材料を提供しているという、ごく常識的な見方だが、安倍首相は2013年6月の自身のメルマガで、これに噛みついた。
毎日新聞のコラムで元外務省の田中均氏が、安倍政権の外交政策について語っています。11年前…を思い出しました。拉致被害者5人を北朝鮮の要求通り返すのかどうか。彼は北朝鮮の要求通り送り返すべきだと強く主張しました。私は…「日本に残すべきだ」と判断しました。田中局長の判断が通っていたら5人の被害者や子供たちはいまだに北朝鮮に閉じ込められていた。…外交を語る資格はありません
しかし、田中氏の努力で、閉ざされていた北朝鮮への扉が開かれたのも確かである。
「ミスターX」とは柳京(リュ・ギョン)という人物をさすとみられる。韓国情報当局によると、北朝鮮の秘密警察、国家安全保衛部の副部長だったようだ。
それまでの交渉窓口は、朝鮮労働党書記、金容淳氏だったとみられる。自民党実力者、野中広務氏らはこのルートを温存するためもあって、莫大なコメ支援を続けた。ところが、金容淳氏が失脚したため、代わって柳京氏が登場し、田中均氏の交渉窓口となった。
2001年4月、首相になった小泉純一郎氏はまず、その年の10月に北朝鮮への50万トンのコメ支援を実施。翌年2月、田中真紀子外相更迭で小泉人気にかげりが見えはじめると、拉致問題の解決による政権浮揚をめざした。
田中局長と柳京氏との裏交渉の結果、日本の首相が北朝鮮に乗り込んで、拉致された人たちを救い出すという、勇ましい外交ショーが繰り広げられ、小泉人気はみるみるうちに回復したのである。
柳京氏はその後、南北秘密接触で訪韓したさい、韓国の情報当局の取り調べを受けたのがもとで、北朝鮮当局にスパイ罪で粛清された。
もし、日本政府が第2のミスターXを見いだすことができたなら、対北政策の“かくも長き不毛”はなかったに違いない。
トランプ氏のお気に入りになったのが、ほとんど唯一の“外交成果”といえる安倍首相のこと。4月下旬に訪米したおりに、金正恩委員長と会う方法を教えてもらうなり、日朝会談のお膳立てを依頼するなりすればよさそうなものである。
それではますますトランプ氏に軽く見られ、貿易交渉でつけ込まれると懸念したのだろう。例のごとくゴルフで親睦を深めただけで安倍首相は帰ってきた。
北朝鮮への交渉ルートを切り開く“大役”を引き受けたのは、安倍首相と入れ替わるようにアメリカに渡った菅官房長官だったらしい。
5月11日のTBSニュースは、菅官房長官の訪米目的について、「金正恩党委員長をとりまく北朝鮮の人間関係について、日本の把握している情報が正しいのか確認したかった」という日本政府関係者の話を伝えた。
つまり、日本政府が目星をつけている人物が、金正恩に話ができる交渉相手として的を射ているかどうか、不安があるのだ。
その原因は、ベトナムで2月に開かれたトランプ・金正恩会談が「決裂」した後、北朝鮮首脳部に起きた変化にありそうだ。
<日経新聞2019年4月6日>
6日付の朝鮮日報は、2月末の米朝首脳会談に先立ち米側との事前協議を担った北朝鮮の金革哲米国担当特別代表が、合意見送りの「重大な責任」を問われていると報じた。…対米交渉から外されたとする外交筋の話を伝えた。
金革哲氏はハノイ米朝首脳会談の実務責任者だった。「ハノイの決裂」の責任をとらされ、処刑された可能性もある。
<ロイター4月24日>
北朝鮮は、金正恩朝鮮労働党委員長の右腕で、ポンペオ米国務長官のカウンターパートである金英哲党副委員長を党統一戦線部長のポストから外した…韓国国会情報委員会の李恵薫委員長はロイターに対し、金英哲氏は…2回目の米朝首脳会談が物別れに終わったことを受けて「問責」されたようだとの見方を示した。
金英哲氏は昨年6月にシンガポール、今年2月にハノイで開かれた米朝首脳会談で金正恩委員長にピタリと寄り添っていた。だが、ハノイ会談後、その消息がぷっつり途絶えた。
金英哲氏や金革哲氏につながるルートをもし日本政府が掌握していたとすれば、いったん白紙に戻し、別ルートを探さなければならない。
そのあたりの事情をつかんでいるのは北朝鮮との話し合いを進めてきたマイク・ポンペオ国務長官であろう。ポンペオ氏は金英哲氏とともに米朝首脳会談の準備を進めた経緯があるからだ。5月9日午後(日本時間10日午前)、ワシントン入りした菅官房長官は、さっそくポンペオ国務長官と会談している。
毎日新聞によると、菅長官の訪米意図を5月3日の時点で韓国紙が報じていた。
韓国紙・中央日報電子版(日本語版)は3日、菅義偉官房長官が9~12日の訪米中に北朝鮮高官との接触を模索していると報じた。中央日報はワシントン外交筋の話として、拉致問題担当相を兼ねる菅氏が訪米中に「北側の人物と会うことを推進している」と報道。
北側の人物に菅官房長官が接触したかどうかはわからない。ポンペオ国務長官から対北ルートを確認できたかも定かではない。
だが、ひっきりなしの外遊にもかかわらず外交成果らしきものがなく、参院選を前に焦りを募らせている安倍首相が、ここへきて何としても、金正恩委員長との首脳会談を実現させたいと考えているのは確かだ。
もちろん、条件は付けないといいながらも、拉致問題は解決済みとする北朝鮮の態度を変えさせるのが目的である。
官邸外交の司令塔とみられる今井尚哉首席秘書官は周囲にこう語っているらしい。
「日本だけが北朝鮮に最大限の圧力を掛け続けるといっても仕方ない。拉致問題は日本にとって弱みのように見られるけど、強みでもある。北朝鮮は拉致解決をちらつかせて日本政府からカネを狙っている。それなら、そこをうまく利用すればいいじゃないか」(ニュースポストセブンより)
圧力路線をいつまでも続けるより、安部首相が直接会って、カネをちらつかせたほうが、経済的に困窮している北朝鮮には効き目があるというのだろう。
安倍首相の方針転換からは、金正恩との融和策を維持するトランプ路線に合わせようとする今井秘書官の意図が読み取れる。
それにしても官邸外交ばかりが目立ち、外務省の影が薄いのは気になるところだ。今井秘書官の“経産省ライン”が幅を利かせる現状は、外務省から見れば面白くないだろう。
河野太郎氏は外務大臣就任後、朝鮮半島を担当してきた「北東アジア課」を韓国担当の「1課」と北朝鮮担当の「2課」に分割した。これは官邸の意思だとされる。国交のない北朝鮮を専門とする新しい部署を、外務省内における「官邸の出先機関」と捉える向きもあった。
いまや、外務省は官邸外交のサポート役に成り下がった感さえある。こうなると、第二のミスターXを探しあてて接触するような難しい仕事は避けようとするのも仕方がない。官邸からの横やりが入らないよう、下請けに徹するということになってしまう。
国連本部での拉致問題シンポジウムに拉致担当として出席するという大義名分はあるものの、国の危機管理をあずかる菅官房長官が訪米した真の目的が、金正恩に到達するルートにあったとすれば、国家組織の機能分担がうまく働いているのかどうか、不安をおぼえる。
安倍首相の派手な外遊パフォーマンスの裏側で、地道かつしたたかであるべき外交情報力は脆弱になっている。官邸外交の弊害か、それとも外務省の怠慢なのか。
image by: 首相官邸