まだ誰もその魅力に気づいていないバンドやアイドル、あるいはその中のあるメンバーの魅力を多くの人に知らせたい、売れてほしい!…尊いファン心理ですが、本当に売れると、何かそれまでとは違った気持ちが湧いてくる。メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さんが、そんな不思議で複雑なファン心理について分析を試みます。結果見えてきた少しシビアな現実と、それでも確かに残る大切なものの存在を伝えます。
売れるということ
例えば、好みのバンドがあったとする。まだまだマイナーで街を歩いていてもその音楽を聞くことは滅多にない。知る人ぞ知る、といった感じである。
それがどんどんメジャーになって、テレビ出演、オリコンチャート・シングル、果ては紅白出場まで来るとどうであろう。古株のファンとしては何となく複雑な気持ちになったりはしないだろうか。
さらにCMタイアップ曲、ドラマ主題歌と続けば、以前ほど容易くはライブチケットも取れなくなり、それまでは何となく複雑だった気持ちがいよいよ本格的に複雑になって行く。
そうして挙句には「こんな筈では…」などと思ってしまう。一方的に、我がまま勝手に思ってしまう。こういったことはよくあることと思うが、この間の心理的変化にはなかなかに屈折したものがある。
まずは「自分だけがその価値に気付いている」といった独善的な目利き感覚から始まり、そのうちそれが「どうしてこの良さが分からないのか」といった周囲の無理解に対しての不満となる。他人の業績に相乗りする形での、ある種の承認欲求とでも言うべきものであろう。
ところが、ひとたびその欲求が承認され始めると前述の所謂「複雑な気持ち」なるものが頭をもたげてくるのである。そもそも自分がプロデュースした訳でもないのだから誰かに自慢できる筋合いでもない。「それ見たことか!」「俺の言った通りだろ!」と声高に叫んでみたところでその反応はせいぜい「ふーん、そうなんだ」くらいが関の山であろう。そもそもが相乗り(もっと言えば、ただ乗り)なのだから、これは当然と言えば当然である。
ところが本人的にはそれでは収まりがつかないものだから、新たに増えたファンを「新参者」とか「にわか」などと呼んでは勝手に自分を格別の存在のように思い込もうとするのである。そういった心理はきっと排他的独占欲のようなものから来るのであろう。
これがいよいよという段階になると
「最近は売れ線ばかり意識して」
「昔はいい曲を作ってた」
というふうに現在の否定と過去の肯定が始まる。独善的懐古主義である。要はバンドと一緒に小さなワゴンに相乗りするのは楽しいが、バンドワゴンへの乗合はまっぴらなのである。
ただ皮肉なことに、この段階にあってもそのバンドを嫌いになることは決してないのである。文句を言いつつもこつこつネットでCDを買い続けたりなどするのである。
それにしてもこの心理的屈折は何であろう。自分の審美眼を承認してもらうには売れてもらわなければならない。しかし売れると独占したいという気持ちとは裏腹の結果となってしまう。この論理はどうしても心理的屈折を生むのである。
おそらくそれは、受動的支援の限界とでも言うべきものに起因するのであろう。一方、実際にプロデュースしたりディレクティングしたりすることは能動的支援である。この能動的支援の輪はそのまま利害関係の輪となるものだから内々にでも心理的屈折は存在しない筈である。売れればその利害関係者である自分たちも喜ばしいのは当たり前のことだからである。
こう考えると、受動的支援は相乗りというより、やはりただ乗りに近い気がする。ただ乗りだから行き先に口は出せないし、ただ乗りだから誰が乗って来ても文句は言えない。できることと言ったらせいぜい飛び降りるくらいのことであろう。
とは言え、誰もが能動的支援者になれる訳ではない。時間的問題もあるし、経済的問題もある。胆力の問題も大きかろう。そもそも仕事としてその場に居合わせることがまず普通はない。
だから我々はただ乗りをするのである。そうすることで、自分の人生の彩を補完し、誰かの人生を追体験し、別の可能性を夢想するのである。所謂ファン心理なるものも分析してみれば、その実こんなものなのかもしれない。
ただここに、一つだけ確かなことがある。それは一番最初に「この曲いいな」「この子かわいいな」「この絵すてきだな」「この…」と直感的に思ったその感性だけは真に純粋なものだということである。この時の「好き」ほど純度の高いものはないと思うのだがどうか。
いつまで経っても、どんなになっても嫌いになれないのは、実にこの出会い故ではないだろうか。そんなふうに思うのである。
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