なぜ空気に屈服してしまうのか?
要は、データや真実よりも、すべては「空気」次第ということなのである。いや、データや真実すらも、納得という「空気」をつくるために利用、あるいは捏造される。納得の「空気」にとって都合のいい「事実」に作り変えられる。
日本は、ずっと変わらず「空気」で物事を決定する社会なのである。上層部の「空気」によって決定した事項は、覆せない。決定した上層部も、だめとわかっていながら、そうせざるを得ない「空気」に屈服しているのである。
真珠湾攻撃を命令した司令官もパイロットも、原爆投下を命令した司令官も実際に爆弾を落としたパイロットも、みんな同じである。それを計画した人も、飛行機を作った人も、部品を作った人も、そのための世話をした人も、全て同じである。
官吏(役人)の仕組みと同じで、個々に責任はなく、決定事項に対してそれぞれの役割分担をしているだけなのである。何が本当に正義で何が本当の悪かなんて、関係なく動くしかないのである。そこにお馴染みの勧善懲悪のストーリーが都合よく利用されているだけである。
空気をどう変えることができるか?
戦争のことだけではない。翻って、自分自身の生活についても考えてみる。
各々、今の自分の置かれている立場を考えてみる。不満や大きな問題点はないか。実は悪いと思っているのに、従って日々を漫然と過ごしている点はないか。あるのに、自ら改善しようとしないのはなぜか。それは、空気が関係しているからなのではないか。
「今更無理」
「上が」
「自分にはどうにもできない」
……。
これらを支配しているのが、空気である。空気は、つかみどころがなく、たたかいようがない。人々に、無力感を植え付けるものである。
空気を、どう変えるかが問題となる。
縦割りの多重構造の組織ほど、空気を変えるのは難しい。組織で長い間かけて醸成された空気を変えるというのは、容易ではない。「難しい」→「仕方ない」→「諦める」→「慣れる」→「常識」となる。
組織に新しい風が必要になる所以である。しかしその「風」もやがて変えられずに馴染んでしまい、他に常識を押し付ける側になる。
これを変えられるのは、「大衆」としてではない、責任をとれる個人である。そうなると、その人は「常識」と「みんな」の安全地帯から出る必要がある。そうなってくると、実行するのはごく少数の限られた人だけである。大衆的心理として、自分がリスクを負うのが嫌だからである。