政府が打ち出した少人数学級などの案もあり、これからの日本の教育は大きく変わろうとしています。現役小学校教師の松尾英明さんは自身の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の中で、「子供に教える」ということについて、教師という立場から基本に立ち返って深く掘り下げています。
「教える」ということ
教育メルマガとしての基本に立ち返り、教えるということについて考える。
学校教育では、教える内容の最低ラインが予め定まっている。約10年スパンで改訂される、学習指導要領の存在である。現行の小学校学習指導要領解説を全教科分並べれは、百科事典のような厚みと分量になる。それぐらい細部にまで渡って教えるべき内容が書かれている。
定まっているからこそ、そこについて悩まなくていいという面がある。一方、定まっているからこそ、それをせねばならないという義務が生じ、自由に制限がかかる面がある。
そこから、現在の学校の教師の仕事には、次のことがいえる。
1.定められたことを全て教えようと努めること
2.教えた内容が身に付くように努めること
厳密には、1.は努める、ではいけないのだが、現実的には「努める」であろう。2.は、努めるで正しい。現在の日本の義務教育は、修得主義ではなく、履修主義だからである。修得させないといけなくなると、身に付けさせられなかった子どもは留年させることになる。
さて、これらを前提に、学校で教えるということを考える。
ある教科の内容を教える。やらせてみる。
この段階で既に大きな壁が2つ出る。
教えた時。伝わらない、あるいは聞こうとしない子どもがいる。当然である。
やらせてみた時。やれない、やりたがらない子どもがいる。当然である。
教えられる子どもの側に立つと、実行能力と意欲の2軸で4つの領域に分けられる。
1.実行能力もやる意欲もある
2.実行能力は不足しているが、やる意欲はある
3.実行能力はあるが、やる意欲は不足している
4.実行能力もやる意欲もない
1.は何も問題がないので、教えてやらせてみればよい。教える側がどんな人でも問題ない。高い課題を示すだけで勝手に自分でどんどん伸びる。
2.は、本人がやれるようになりたい状態である。教える側は、あれこれ工夫して、手をかけ頭をひねって一生懸命に教えればよい。熱心に教えて感謝されることはあっても嫌がられることはない。
3.から先が難しい。
3.は、子どもが目的意識をもてるような工夫が必要になる。しかしながら、本人が求めてないので、下手に与えることは迷惑になる。ただ、内容が定まっている学校という枠組み内で、放置してやらせない訳にもいかない。なまじっかできるがゆえに、教えるということ自体が難しい状態である。
4.は最も難しい。教える側からすると、手も足も出ない状態である。あれこれ工夫して意欲を出すようであればいいが、多くの場合有難迷惑である。しかも、意欲をもっても、簡単にはできるようにならないのである。そうなると、意欲の維持自体も難しい。
まとめると、教えるという行為には、限界がある。教えるという行為は、与えるという行為の一種である。内から引き出すという意味があるものの、それ自体も教える側からの働きかけである。求めていない相手には、有難迷惑である。
そう考えると、教える側ができることは何か。なるべくその教えたい内容の魅力が伝わるようにしつつ、提示するまでである。それを受け取るかどうかは、学びの主体である子ども自身が決めることである。
受け取った子どもに対しては、更に教えることが数珠つなぎ的に出る。受け取らない子どもに対しては、また別の機会に違うものを提示をするしかない。
ここを無理に押し付けて魅力を伝えようとすると、嫌がられる。それは、訪問セールスと同じである。
相手がその商品を気に入ったならば、相手から呼ばれて買われるようにまでなる。あるいは相手がセールスマン自身を気に入ったならば、他のあらゆるものもその人から買うようになる。そしてこれは、お互いに幸せな状態である。
相手が興味をもたないならば、迷惑で鬱陶しい存在でしかない。しつこく訪問して売ろうとすることで、顔を見るのも嫌という可能性が大いにある。そしてこれは、お互いに辛い状態である。
まとめる。教えるということ、その本質は「提示」である。そこから先は、相手次第である。
提示するものの魅力を工夫して十分に伝えること。一方で、興味をもたない相手に押し付けないこと。
この辺りが教える際の要点ではないかと思われる。
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