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「文章の構造化が苦手」ワープロ専用機時代から続く日本人の大問題

1990年代初めはパソコンよりワープロ専用機の台数が多い会社の方が普通でした。その頃のメーカー各社が、ワープロ専用機の未来を語ったコメントがSNS上を賑わしたことに端を発し、さまざまな考察がなされています。メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』著者で、Evernote活用術等の著書を多く持つ文筆家の倉下忠憲さんは、ガジェットは変わっても「神Excel」と呼ばれる手法や書式が受け継がれている会社があるように、使う側の問題は変わらずにあると指摘。効率的にデジタルツールを利用するには、文章の構造化について理解する必要があると論じています。

ワープロ専用機の未来と構造化文章

以下の記事を読みました。

「ワープロはいずれなくなるか?」への回答を今のわれわれは笑えるか あれから30年、コンピュータと文書の関係を考える – ITmedia NEWS

論点がさまざまに伸びているので若干とっかかりが難しいのですが、いくつか考えたことを書いてみます。

まず、記事中に出てくる「ワープロ専用機」は、もしかしたら若い方はご存知ないかもしれません。現代で言うところの、ハイエンドなノートパソコンくらいのサイズの、モノクロなディスプレイの、文章を作成するくらいしか機能がない、めちゃくちゃ重いガジェットが昔あったのです。

そのガジェットは、フロッピーデスクに文章を保存することもできましたし、なんと印刷機能がついていたので、そのままプリントアウトもできました。ようするに、デジタル式の日本語入力可能なタイプライターだと考えれば、そう間違ってはいないでしょう。

当時はパーソナルコンピューターがまだまだ高価であり、それに比べればワープロ専用機は「がんばれば買える」くらいの値段でした。その時代は、いわゆるホワイトワーカーが増えており、文章を書くことが仕事に組み込まれている人も増えていたので需要も高かったのでしょう。

私のように、趣味で文章を書きたい(小説ですね)人間にも、ワープロ専用機は憧れの存在でした。辞書もついているし、たくさん文字を書いても手首がいたくならないし、大量の原稿用紙を準備する必要もない。しかも、完成品をプリントアウトしてにんまりすることもできます。実に素晴らしい。

上の記事で取り上げられている各メーカーさんたちは、そうしたワープロ専用機がもっと普及している未来を「予想」していたようですが(ポジショントークというよりも、開発しているメーカーならば当然の考えでしょう)、結果的に、そのようなガジェットを見かけることはなくなりました。私も、高校生以来そうした端末を一切触っていません。悲しい現実です。

普及している端末

とは言えです。話はそんなところでは終わりません。まず、「文章をデジタル入力・保存する装置」として捉えれば、デスクトップパソコンとノートパソコンが(おそらく各メーカーの予想を遙かに超えて)普及している現実があります。ノートパソコンなら、ワープロ専用機よりも軽く、より多くの機能を担うことができます。技術の進歩です。

また、「文章しか入力できない装置」として捉えれば、我らが「ポメラ」という端末があります。ワープロ専用機のように印刷機能はありませんが、通信によって他の端末にデータを移すことが可能なので、現代的な状況では同じような役割をはたしていると言えるでしょう。

とは言え、ポメラが保存する文章はプレーンテキスト(.txt)です。いわゆるワープロが想定するリッチテキストではありません。この点の違いは、大きい場合もありますし、そうでない場合もあります。ややこしいのは、そうであっても、ポメラは見出しが使えるのです。つまり、構造化された文章を扱えます。上の記事の論点をかき乱すような存在です。

さらに言えば、iPhoneやiPadなどの「パソコンでないけれども、パソコンっぽいことができる」ガジェットも話をややこしくします。これらはプレーンテキストもリッチテキストも扱え、なんなら横書きだけでなく縦書きも可能なのです。つまり現代は、過去の状況と比較すると、ひどく混沌としていることがわかります。

何にフォーカスするのか

もう一度、「ワープロ専用機」の話に戻りましょう。(一応)持ち運びが可能で、テキスト入力しかできず、しかしそれはリッチテキスト(ドキュメントファイル)であり、直接印刷できる端末は、現状はもう死滅していると言ってよい状況です。しかし、これらの要素のどこかを変更すれば、それに似たガジェットは今でも生き残っていますし、なんなら普及しすぎるほど普及しているとも言えます。よって、どの要素にフォーカスするかで話は変わってくるでしょう。

まず、持ち運び可能な入力端末に関しては、びっくりするほど普及しています。これだけたくさんの人が「メモ」できる端末を持ち歩くようになった時代は現代が初めてでしょう。それは、知的生産のための下準備が整っていることを意味しますが、そこに深入りするのはやめておきましょう。

また、直接誰かに手渡せるメディア(媒体)を生成できる端末としてみれば、今は紙よりも電子ファイルの方が強く、しかもコンビニのマルチプリンターを介すればそのような電子ファイルから紙へのプリントアウトにも接続できるので、これまた圧倒的な普及をしていると言えます。

しかし、「テキスト入力しかできない」端末に関して言えば、スマートフォンやタブレットに比べれば普及していません。というか、スマートフォンやタブレットが普及しているので「テキスト入力しかできない」端末は下位互換だと認識されてしまうのでしょう。知的生産の技術に興味を持つ人でも、ポメラを普段使いしている人は稀です(私も一人しか知りません)。

これは素直には喜びにくい状況です。上位互換だからといって、良い結果をもたらすとは限らないからです。私たちはさまざまなことを便利にしつつも、常に「気移り」しやすい状況を作っているとも言えるのです。その気移りは、生産性においても、精神衛生的にもよいものではありません。しかし、楽しいし便利なので、そこから離れられないのです(実体験に基づいています)。

たぶん、私がいつまでもポメラへの憧れを捨て切れないのは、昔感じていたワープロ専用機の「良さ」の記憶が(若干の美化を含みながら)ずっと残っているからなのでしょう。「文章しか書けないデジタルツール」には、パソコンにはない「良さ」(もっと言えば機能)があるはずなのです。ともかく、この「テキスト入力しかできない環境」については、また改めて考えたいと思います。

レイアウトと構造

さて、残すはリッチテキスト(ドキュメントファイル)です。ここには絡み合う二つの要素があります。一つは、印刷を前提とした「レイアウト」。もう一つは、文章の構造化です。

基本的に、レイアウトを整える場合は、それを構成する要素を構造化します。イメージしやすいのは、HTMLでしょうか。一つひとつの要素に個別にスタイルを指定するのではなく「見出しの2は太字にして、フォントサイズを24pxにする」といったレイアウト調整が行われるのですが、これを行うためには「見出しの2」を指定しなければなりません。これは、そのページ(文章)を構成する要素に、それぞれ役割を与えることだと言えます。

そして、「見出しの2」とは、「見出しの1」の下位に属し、「見出しの3」を自らの下位に持つ、という役割を担っており、それがつまり構造化、ということです。

ワープロソフトでも、文章の見た目を整える場合は、個別の行にいちいちスタイルを設定するのではなく、「ここは見出しの2で、そのサイズは24にする」といった感じで進めていくのが一般的……かどうかはわかりませんが、そのやり方で進める方が効率的です。

そう。ここなのでしょう。文章のレイアウトやスタイルを調整する際に、文章の構造化を利用することが一般的かどうか。この点が、現代の「文書とコンピュータと技術」について考える上で重要な点だと感じます。

日本の「レイアウト」

たとえば、「神Excel」という概念があります。詳しくはググッてもらえばよいのですが、Excelの一つのセルを方眼紙のマスのように捉え、複雑なセルの結合を繰り返して、「レイアウト」を作ってしまう手法です。もちろん、ここにはレイアウト=構造化、のようなコンセプトは皆無です。言い換えれば、構造化を通さずに、そのまま「見た目」を実現してしまう手法と言えるでしょう。

この「神Excel」がどこまで人口に膾炙(かいしゃ)しているのかはわかりませんが、「ごくごく一部の人たち」だけの話ではないことは、この話題の盛り上がりからも推測できます。また、こうした「神Excel」は業務の現場で作成され、それがテンプレートになって「代々受け継がれる」ものなので、自分では神Excelなんてやめたいと思っている人でも、仕方なくそれを使っている(あるいは、それがどういうことかもわからず利用している)場合も多いでしょう。

さらに、技術評論社から出版されている『スペースキーで見た目を整えるのはやめなさい~8割の社会人が見落とす資料作成のキホン』(四禮静子)という本もあります。ワープロツールの場合、印刷上の行頭字下げはインデント機能を使えば自動で設定できるのですが、それを使わずにスペースキーで「見た目」を整える人が一定数存在するから(「8割の社会人が見落とす」とあります)、このような本が出版されているのでしょう。

上記の二つの話から推測できるのは、デジタルツールで「見た目」(印刷上のレイアウト)を整えるときに、その文章の構造的情報にタッチすることなく、そのままダイレクトに変更を加えるやり方がよく行われているという現実の存在です。

ワープロで言えば、見出しに相当する行に一つひとつ「フォントを太字にして、サイズを24px」という設定を行っているわけです。これは非効率的であり、また(ソフトウェアが認識する)「構造」が作られていないという意味でも非構造的です。

悪い?

一体、そうした行為の何がいけないのでしょうか。「神Excel」だって、プリントアウトすればごく普通に使えるし、なんなら綺麗なレイアウトじゃないか、それでいいじゃん、という意見はあるでしょう。その意見こそが、「神Excel」的なものがなかなか無くならない理由でもあります。「今、役目を果たせるならば、細かいことは気にしない」。そんなコンセプトが鎮座しているのでしょう。

実際、同じものを使い続けたり、多少の修正で済む場合なら問題は起こりません。しかし、項目の再編成や、フォーマットの変更が発生したときには、ひどい事態が訪れます。何がどうなっているのかがわかりにくい上、セルの結合を一つひとつ解いていかないとレイアウトの変更もままなりません。おそらく、ゼロから作ったほうが早いでしょう。そのようにして、データの再利用性が著しく落ちます。

ワープロの場合でも同じです。「ちょっと文字サイズ小さいので、見出しのフォントは26にしよう」となったら、再びすべての行に対して変更作業を行わなければなりません。揚げ句の果て、「やっぱり大きすぎたから25に」なんて言われた日には発狂してしまうでしょう。

さらに、同様のスタイルが指定されている、しかし見出しではない文と見出し文の区別も当人しかできません(当人もいずれわからなくなるでしょう)。さらに、機械的に目次を抽出することもできず、コンテンツの解析も進みません。すべて「プリントアウトしたものが整ってさえいれば、それでよい」というマインドセットがもたらす被害です。

前例主義が機能しており、大きな変化が生じない時代であれば、「秘伝のたれをつぎ足す方式」でも被害はあまり起きなかったのかもしれませんが、さすがにもう現代でその考え方でやっていくのは無理でしょう。データの再利用、つまり自分以外の人間やコンピュータがその情報を使うことを想定することが大切で、そのために構造化は欠かせません。

そしてそれは、見た目以上の問題にも関わってきます。(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』より一部抜粋)

image by:Yoh-Plus, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons 

倉下忠憲この著者の記事一覧

1980年生まれ。関西在住。ブロガー&文筆業。コンビニアドバイザー。2010年8月『Evernote「超」仕事術』執筆。2011年2月『Evernote「超」知的生産術』執筆。2011年5月『Facebook×Twitterで実践するセルフブランディング』執筆。2011年9月『クラウド時代のハイブリッド手帳術』執筆。2012年3月『シゴタノ!手帳術』執筆。2012年6月『Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術』執筆。2013年3月『ソーシャル時代のハイブリッド読書術』執筆。2013年12月『KDPではじめる セルフパブリッシング』執筆。2014年4月『BizArts』執筆。2014年5月『アリスの物語』執筆。2016年2月『ズボラな僕がEvernoteで情報の片付け達人になった理由』執筆。

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