入学式も卒業式もムダ。3月4月すべての儀式が日本人を不幸にする

 

まず、卒業式です。小学校などは良いとしても、日本の中学以上の卒業式というのは、とても妙だと思います。何かを完結したとか、属していた集団から次のレベルへ羽ばたくのを祝うというのは、基本的には悪いことではありません。ですが、その儀式に意味があるのは、ギリギリまで頑張って成果を挙げたとか、最高学年として、存在感を発揮したというのがあってこそだと思うのです。

ところが、日本の中学、高校、大学の場合はこのケジメというのがありません。卒業式は3月末なのに、1月ぐらいから学生は学校に来なくなり、学生生活がどんどんフェイドアウトして行くわけです。どうしてかというと、入試があるからで、高校入試は2月だとすると中3の生徒はその前で事実上の中学生活は終わりになります。部活などはもっと前に引退です。

高校生の場合はもっと徹底していて、1月のセンター試験の前、12月の終わり頃から事実上の高校生活はファイドアウトです。部活に至っては、ガチな体育会で3年の夏、受験校だと2年の終わりで引退などという「全くしまらない」終わり方をします。大学もそうで、最後は就活があり、内定が決まると拘束だとかインターンだとかで、結局のところは学生生活は3年の後半ぐらいからフェードアウトして行くだけです。

ですから、多くの場合に卒業式というのは「お別れ」であると同時に「クラスメイトとは久しぶりの再会」であったりするわけです。何ともマヌケな話としか言いようがありません。

どうしてこうなるのかというと、結局は終身雇用の企業や官庁というネバネバした共同体の一員に入って、その正規雇用という「階層」に入るのが人生の目的という悪しき考え方が残っているからです。大学は就職のため、高校は大学に受かるため、中学は高校に受かるためと、ドミノ式にそれぞれの段階の教育は、中身を骨抜きにされて、意味を薄められてしまうからです。

儀式の中で変なのは、卒業式の来賓という存在です。卒業式は卒業生の成果を評価してそれを讚えるモノだと思うのですが、来賓という名前で政治家とか教委とかが上座に座っているというのは奇々怪々です。それだけではりません。来賓なら来賓らしく、面白いスピーチ、あるいは立派なスピーチをすればいいのに、だいたいの場合は「型通りの」何の面白みもないスピーチを聞かされるわけです。主役は卒業生であり、卒業生にとって思い出に残るような演出を考えるべきです。

今でも4月を待てずに、3月中から新入社員を拘束する企業があり、卒業式に行くとか行かないとかで揉めるケースも残っているようですが、企業に「なめられる」ような無意味な卒業式をやっていることにも問題があるのではと思います。

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