とにかく、こうした一連のバカバカしさというのは、日本の学校や職場が「メンバーシップ」型、あるいは「ネバネバした共同体」としてのカルチャーを引きずっているからです。そして、そのことが、生産性の低下、幸福度の低下、そして国際競争力の喪失を招いています。結果的にその集団全体を不幸にしているわけです。
まず教育です。学校は常に「入試で基礎スキルを足切り」して行き、下の学校の最大の目標は「上の学校の入試(もしくは就職試験)に受かるため」という位置づけが、まずオワコンです。そうではなくて、高校なら高校の履修内容で、その成績を評価することで大学に行けるし、大学はしっかり学んで、その成果により学位が出る、その学位の質で就職が決まる、世界の常識はそうなっています。
その結果として、金融工学を学んだ学生、バイオを学んだ学生、税務会計を学んだ学生はそのスキルを評価されて、専門職としての雇用を得ます。そして、大学で学んだことが即戦力になるべきです。
また、そのような専門性の上に職歴が乗っかれば、労働市場で競争力が出ますから、仕事のレベルアップを狙って転職し、そこで給与も良い条件を退き出すことができます。その全体において、個人は採用する企業と対等であり、社畜として転勤に甘んじたり、単身赴任したりということもありません。
そして、そうした方法の方が、全体が成長し、個人や家族の満足度や幸福度は上がり、上がらないまでも理不尽な屈折はなく、そして社会も企業も国も産業も、変化しながら持続することができます。
日本の場合は、終身雇用の非専門職によるネバネバした共同体が、企業の意思決定勢力であり同時に守旧派勢力として君臨しており、その貴族的であり同時に奴隷的でもある特権階級に入るための「受験競争」があるという制度が長く続いてきました。
その特徴を象徴するものが、この3月から4月に共同体を出たり入ったりする際の儀式であり、その一連の儀式のナンセンスが、この共同体システムの崩壊を示しているわけです。にもかかわらず、実は崩壊しているにも関わらずそのゾンビのような実態に気づくことなく、相変わらず訓示をしたり、辞令交付をしたり、コロナ禍の下でも歓送迎会を深夜までやったりしているわけです。
とにかく、この年度替わりの忙しさの中に、とりわけ卒業、入学、入社といった共同体がらみの出入りの儀式の中に、本当に人を感動させるコンテンツが入っているのか、その儀式の意味合いが本当に経済や社会を発展させるものなのか、コロナ禍ということも併せて考えてみる時期だと思うのです。(メルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』より一部抜粋)
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