闇の権力者よりタチが悪い。日本の政治を支配する不気味な沈黙

 

現代の日本において、国家というのは、納税と行政サービスのバーターで考える単なるNPOの一種であり、納税が義務である分、国民は相当のカスハラが許されるという不安定な関係になっているようです。その結果として、大規模な社会の建設主体としての国家ではなくなりました。

夜警国家という考え方があって、小さな政府に徹して、福祉や公共サービスは最小限にする、但し安全保障と治安維持だけはするという考え方があります。ですが、安全保障に関しては昨今の右派は何の躊躇もなくアメリカに丸投げですし、国内治安に関しては「良くて当たり前」であり、そのくせ警察のことは誰も尊敬していません。ですから、夜警国家でもないわけです。

そんな中で、内閣総理大臣というのは、学級崩壊した底辺校の校長のようなポジションになっています。亡くなった思想家の吉本隆明(ばななさんのお父上)は「大統領や総理大臣が、町内会の水くみ当番のようになり、誰もその役に執着せず、輪番でその役を代わるようになれば、国家権力は消滅する」というようなことを、60年代末から70年代に述べていました。

団塊世代を中心とした当時の若者の一部は、これに熱狂したのです。当時の若者にとっては、国家権力というのは途方もなく大きな悪であり、つまり悪しきベトナム戦争を遂行するアメリカに協力し、途上国独裁を続けることで格差を放置する巨悪と思っていたわけです。

少なくとも佐藤栄作に対しては、そう思っていました。ですから、国家権力が「水くみ当番」になる日が来れば、日本人全員が自由になれると思っていたのでした。

それから50年、2021年の現在、総理大臣というのはほとんど「水くみ当番」になってしまいました。けれども、単なる水くみ当番ではありません。村人たちは、当番の汲んできた水が冷たければ怒り、温(ぬる)ければ怒り、途中でこぼせば怒り、だからといってバケツ一杯に入っていないと怒るわけです。

ですから、当番の義務を淡々とこなせばいいのではなく、順番が来ないことを祈る、そんな役目とも言えます。

ですから、ポスト菅などと言いますが、例えば岸田、石破などという面々は、例えば五輪のやめ方、ワクチンの普及方法について、菅さんより「まし」であったり「違う」何かを持っているのかというと、そうでは「ない」と思われます。

となると、「こうした状況で総理になりたい」といっていること自体が、最初から無能の証明になっているような感じもあり、暗澹とした思いがするのです。

一方で、世間にはマスク警察、自粛警察がうごめいているわけですが、これは、戦国時代の野武士、地侍のようなものです。ちょっとでも護衛が弱ければ、残党狩りにあってあえなく落命する、そんな感じです。

ですから、内閣総理大臣の伊勢神宮参拝も、どことなく神君伊賀越えよりもっと惨めな感じがしてなりません。

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