闇の権力者よりタチが悪い。日本の政治を支配する不気味な沈黙

 

この五輪が良い例ですが、日本という社会が直面している他の課題についても同じような状況があるわけです。

まず新型コロナのワクチンの問題があります。どうして確保が遅れたのか、それは厚労省が「アンチワクチン世論」とそれを煽ってきたメディアによって、過去半世紀の間、負け続けてきた歴史があるからです。戦略的に先手を取って進めては、反ワクチン派の炎上作戦には勝てない、だから欧米での巨大な成功事例を待って進めたい、そんな思惑もあったのだと思います。

世論つまり有権者の亡霊に厚労省は恐れおののき、必死になって自分たちを守ろうとした結果ということです。

その一方で、ワクチンを使わない対策ということで、世論に媚びた「ゼロコロナ」政策などを掲げる政党もあるわけで、これは高齢者の感情論を丸のみすれば、当面は票になるという悪質な姿勢以外の何ものでもないわけですが、世論の方は目が肥えていますからそう簡単には騙されないでしょう。

つまり、枝野方式の「徹底した感染対策でワクチンに頼らず感染制圧、経済は徹底バラマキで回す」というセットメニューは、財政赤字が怖いとか、借金を次代に残すのがイヤという都市の高齢層の感覚には合わないということです。

エネルギー政策も同時です。原発再稼働はイヤ、英語公用語化や徹底した教育改革もイヤ、ということだと、世界が激怒するまでモクモク化石燃料焚いて製造業をやった後は産業を畳み、全土がペンペン草、国民は消滅して全員が千の風に化けておしまい、ということになりかねません。

その教育改革ということでも、本来は小中のレベルでもしっかりした能力別カリキュラムを運用すべきなのですが、政治的にできない。そこで、都市部の富裕層は子どもを塾に行かせて中学から私立に行かせるという奇々怪々なことが、延々半世紀続いているわけですが、改まりません。

そんな中で、国家というものが変質してきているように思います。まず、精神的な帰属の対象ということがなくなりました。右派の言論の中には、東條政権以降の敗戦政策を叩くのは「反日」だというレトリックがありますが、では、右派の世論が「親日」であり国家への精神的帰属をしているのかというと、どうも違うようです。

国家というものを、イデオロギーを軸とした言葉のゲームの「土俵=リング」としては使っていても、国家そのものへの信任とか帰属というのはどんどん薄くなっているようです。

何を言っても、裏では「アカンベー」している感じがあって、その立場から見ると左派の言論には「より単純な一生懸命さ」があり、だからこそ叩くのが面白いということになっている、それ以上でも以下でもない、そんな印象もあります。

その証拠に皇室の権威というのも、気がつくとかなり怪しいという感じになりました。内親王という「機関」について、中の人がちゃんと機能を演じる姿勢がないとなると、今度は観客の方も皇室に「統合のシンボル」として精神的な委任・依拠をしなくなる、そんなマイナスのスパイラルが動いているかのようです。

こうなると、上皇夫妻が機関と中の人との折り合いを必死でつけて、近代の中における皇室制度というのを30年模索してきた蓄積も、どんどん食いつぶされてしまう危険を感じます。

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