しかし、つい先日、長年変わらなかった自分の考えがぐらついた。ラジオでお笑い芸人のバービーが「褒めるYouTube」について話していた。とにかく、視聴者に向けて褒める番組を流したところ「バービーさんの言葉を聞いて涙が出ました」というコメントが多かったそうだ。別に特定の人に向けて話しているわけでもなく、ある意味では太鼓持ちの「ヨイショ」を流しまくるわけだが、それでも視聴者の心に響いたのだ。視聴者の分析をすると、「元気になる」というワードで検索した人が多かったそうだ。そして、バービーの番組に出会い、その褒め言葉を聞いて涙を流したのである。
ここでは、見事に「褒める」行為が独立していて、評価の結果で褒めているわけではない。そもそも誰かを褒めているわけではなく、褒め言葉の羅列を不特定多数が聞いているだけなのだ。それでも慰められて涙を流す人がいるのだ。
僕はこれまで、「私は褒められて伸びるタイプです」と言われても、「だったら結果を出せ」と思っていた。しかし、その考えは間違っていた。「褒める」は、評価と独立したところに存在しているのだ。客観的な評価を聞いて涙を流す人はいない。僕のYouTubeを聞いて涙を流す人はいない。でも、どちらが本人のためになったかと言うと、明らかにバービーのYouTubeだ。
3.「褒める」は「好き」に近い
評価の結果として褒めるというのは、褒めることの本質ではない。赤ちゃんは「かわいいね」と褒められて育っていく。何もしなくても、「いい子、いい子」と頭をなでられる。
落ち込んでいる時、例えば、飲み屋の女将さんに、「何だか知らないけど、元気出しなさいよ」と言われるだけでも元気が出てくる。それは評価でも何でもない。褒めることも評価ではない。「私はあなたが好きだよ」「あなたを応援しているよ」という意思表明であり、だから涙が出てくるのだ。これは依怙贔屓かもしれない。依怙贔屓で元気になって、やる気になる人もいる。そして、依怙贔屓はロボットやAIではできないのだ。
考えてみれば、男性が好きな女性に対して「とてもきれいだ」と言うのは、「君がとても好きだ」と言っているのであって、客観的評価ではない。客観的には十人並みでも、好きだからきれいに見えるのである。依怙贔屓と褒めることは、恋愛感情に近いのかもしれない。