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Zenko-ji Temple complex. Hondo (Main Hall) in Nagano City, Japan

『鎌倉殿の13人』で注目。御開帳で賑わう善光寺、その歴史は災難だらけだった

高い視聴率を維持し、評判も上々のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。源頼朝とゆかりの深い信州・信濃の善光寺に注目が集まっています。7年に一度の御開帳で賑わう善光寺。そこで今回は、無料メルマガ『安曇野(あづみの)通信』で、著者のUNCLE TELLさんが 善光寺の歴史とその栄枯盛について語っています。 

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で話題の源頼朝と善光寺

信州信濃の善光寺、善光寺と長野の町は、今、7年に一度の「善光寺前立本尊御開帳」でにぎわっている。

知る通りコロナの影響で一年延び、令和4年の今年開催になった。当初5月29日(日)までの予定あったが、6月29日(水)まで期間が延長。後半月、コロナも下火に参詣者の波はラストスパートというところ。

一方、源頼朝、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で話題、注目されている。頼朝と信濃、また善光寺とのかかわりはけっこうあるのだが、今後のドラマのストーリーの中でそれが出てくるものか。

ところで現在の善光寺は、将軍綱吉の時代に建立されたものである。当時でも今でもまれにみる巨大な木造建築物という。柱のない梁の長さは当代随一であったとも。

この建築には莫大な費用がかかったがその大半は幕府が拠出した。それだけでは足りず寺では特に幕府の許可を受け、全国各地で善光寺仏の幾つかを公開(開帳)して勧進を行い布施を集めた。

これは、それだけ善光寺信仰が全国的に浸透していた証拠でもあり、さらに広まる契機になったとされる。

建築は奉行を任命し幕府と松代藩の宮大工が当たった。焼失したそれまでの善光寺は、現在の本堂よりずっと下の位置にあった。

今の大勧進より下の元善町と呼ばれるあたりにあったようだ。元善(モトヨシ)とは文字とおり元の善光寺という意であろう。

また当時の南大門の位置は、蔦友・信金支店から上の大門町あたり。また東之門町西之門町は当時の東の門西の門のあった位置の名残であろう。

かなり前のことになるが、大門町の道路脇から鎌倉・室町期以降の大量の石塔などが出土し注目された。これらの石塔類は古い善光寺の礎石にも使われたらしいとは歴史講座の先生。

ところで信州・信濃の善光寺は長い歴史を誇るが、栄枯盛を繰り返した。なかでも戦国末期50年近く、本尊が諸国を放浪したのは有名な話しだし、その間、直江津や甲府の各地に善光寺ができ、僧侶等も移り、本来の善光寺門前はもぬけのから状態で、どんなすさんだありさまだったことだろう。

中世にもたびたび火災に遭い荒廃した。1185年(文治元年)、平家を討伐後、信濃など8カ国が頼朝の知行地になった。

そして1179年(治承3年)の火事の後、頼朝は荒廃しきっていた善光寺の再建に乗り出した。鎌倉時代の正史、吾妻鏡によれば、1187年(文治3年)、信濃の国の荘園領主等に再建に合力するよう強い命令を出している。

再建に協力参加しないものは所領を没収するとまで触れの中で書いている。この命令がきいたのか再建工事がすすみ、4年後の1191年(建久2年)善光寺の主要伽藍が落成し供養が行われた。

頼朝は完成した善光寺に一時も早く参詣したかったが、いろいろ重なり、妻政子との参詣が実現したのは完成してから6年後の1197年(建久8年)の春だった。

頼朝が建てた善光寺がどれくらいもったかわからないが、後世の施政者、特に徳川氏などは善光寺に厚い庇護を加えるようになった。

なお、甲斐善光寺に伝えられる「木造源頼朝坐像」は、もとは信濃善光寺にあったものとされる。

1558年(永禄元年)、武田信玄は信濃善光寺の本尊善光寺如来をはじめとする寺宝を山梨郡板垣郷に移した。源頼朝像もこの時に甲斐国へ運ばれたものと考えられる。

後に善光寺如来をはじめとする寺宝は信濃善光寺に戻されるが、源頼朝像は甲斐善光寺に残されたという。 UNCLE TELL

image by: Shutterstock.com

『安曇野(あづみの)通信』

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発刊以来10年、みすずかる信濃はアルプスの麓、安曇野を中心に信濃の光と風、懐かしき食べものたち、 野の花、石仏、植物誌、白鳥、温泉、そしてもろもろ考現学などを、ユニークな(?)筆致でお届け!

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