いつの時代も「子どもの社会は大人社会の縮図」です。日本の企業をみれば、いかに“異物“が排除されてきたは一目瞭然。極論を言えば、女性の活躍さえ進まない日本社会で、特異な才能のある子が活躍できる社会を実現するには、チョモランマ並みの高い壁を乗り越える必要がある。
この問題の解決には、まずは大人たちの問題も解決せよ!と。「隗より始めよ!」と喝を入れたくなってしまうのです。
私は中学校理科の教科書づくりの編集委員をやっているのですが、「今の子供は考える力が不足している。授業では考えさせる授業を!」と文科省から散々言われました。
そこで「考える」題材を教科書に入れ込む。すると現場の先生から「答えがないと成績がつけられない」とクレームがくる。大人たちが「考えるとはどういうことか?」がわかっていないのです。
本来、「考える」とは「知の遊び」です。
なぜ、雲は空に浮かんでいるか?」を考えるなら、雲粒が何でできているのか、なぜ白く見えるのか、雲はどこでできて、どのように消えるのか?を、なぜなぜ坊やのように問い続ける。
知識を広げ、脳内のお猿やたぬきやウサギたちと「あーでもない、こーでもない」と議論し、それを他者に伝える言葉に変換する。
このプロセスこそが、考える作業です。それは自分を丸裸にする行為であり、不完全な自分との仁義なき戦いでもある。そして「知の遊び」の積み重ねこそが幸せな人生につながります。
ところが学校という組織は「考える」ことを用意された答えにたどり着くまでのプロセスと勘違いしているらしい。
「答えがないと成績がつけられない」というクレームは、大人が「考えるとは何か?」を考えないまま、「子供に考える授業を!」とあべこべをリクエストしているのです。
とまぁ、今回もギフテッド議論から、飛躍した展開になりましたが、みなさまのご意見、お聞かせください。
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