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西郷隆盛は本当に西南戦争で死んだのか?生存説が流れた理由とは

西南戦争から14年後に起きた大津事件。そこに西南戦争で死んだはずの西郷隆盛の影を見たと国民の間で噂されていたといいます。なぜ、このようなことになったのでしょうか。メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』の著者である早見さんは今回、噂の原因を追求し、大津事件についても詳しく語っています。

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大津事件と西郷隆盛

大国ロシアの皇太子を警護中の巡査が襲撃した大事件に、明治政府はもちろん国民も驚愕しました。江戸時代後期からロシア船は北海道近海に出没しており、明治時代になって日本はロシアの南下政策の脅威に晒されてきたとは前述した通りです。

また、前述でロシア皇太子ニコライの襲撃に、国民はある英雄の影を見た、とも記しました。

その英雄とは誰あろう、西郷隆盛です。

西郷は明治十年(1877)、つまり、大津事件が起きた14年前、西南戦争に敗れて死亡しました。政府への反乱ということで国賊扱いにされましたが、国民的な人気は非常に高く、それゆえ西郷さんは生きている、という噂が西郷死亡直後から流れます。

噂には尾鰭がつき、西郷さんは大陸に渡り、ウラジオストックに潜伏してロシアの軍隊に訓練を施している、と国民の間でまことしやかに語られるようになりました。

源義経が大陸に渡って成吉思汗に成った……程の荒唐無稽さではありませんが、その分信憑性があり、噂を信じる者は少なくありませんでした。

西南戦争以前、佐賀の乱の首謀者とされた江藤新平は梟首、つまり晒し首にされました。首は写真に撮影され日本全国に流布されます。従って、江藤が死んだことは間違いない事実と受け止められました。

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西郷は銃弾を受けて負傷し、西郷軍の先鋒隊長を務めていた別府晋介に介錯されて死亡しました。西郷の胴体と首は明治政府軍に回収されたのですが、首の写真を撮ることはありませんでした。また、生前の西郷が写真を撮らなかったことは有名で、それゆえ、薩摩や政府関係者は西郷の顔を知っていましたが一般国民は知りません。上野公園に建つ高村光雲作の有名な銅像が出来たのは明治三十一年(1898)です。

顔のない英雄は死に疑念を抱かせたのでした。

また、源義経の首級が鎌倉に届けられましたが、死亡してから日数が過ぎ、おまけに夏であったことから腐敗していた、と伝わり、これが義経本人ではない、という疑念を生みました。

首級といえば、織田信長の首も見つかりませんでした。本能寺が炎上し、信長自身も焼失してしまったからです。宣教師、ルイス・フロイスは、「その声と言わず、名前を聞いただけで人々を戦慄せしめた、あの織田信長が髪の毛一本残さず、地上から消え去った」と書き残しています。

信長の首級を挙げられず、明智光秀は焦りました。光秀ばかりか、織田家の武将も疑心暗鬼に駆られます。羽柴秀吉は信長と嫡男信忠の首級が挙がらなかったことを利用し、攪乱策を取りました。光秀に味方するか秀吉につくか去就に迷っている武将に、「上さま並びに殿さまは無事に落ち延びられた」と記した文を送ったのです。

信長の死は間違いない事実と認知されつつありましたが、首級がない以上、僅かながらも生存の可能性があり、生きていたら信長のこと、光秀に加担した者と一族を情け容赦なく殺し尽くす、この恐怖心が光秀に奔ろうとした決断を鈍らせました。

戦国の世にあって敵将の首を挙げることは最も確かな勝利宣言だったのです。

さて、西郷です。

西郷生存説に拍車をかけたのは、西南戦争終結してから十三年後の明治二十三年(1893)に行われた西郷の国賊解除でした。明治政府は正三位を贈って西郷の功績を顕彰しました。この政府の動きが国民の間に流布された西郷生存説の信憑性を高めたのです。新聞は西郷がロシアから皇太子と共に来日する、と書き立てました。

更にはヨーロッパを訪問した薩摩閥の代表で首相も務めた黒田清隆と密会し、帰国を約束した、などと根も葉もない事実をまるで見てきたように記事にします。

国民は西郷さんのカムバックに沸き立ちました。政府は見過ごしにはできず、強く否定しますが却って国民の熱狂を煽ることになりました。

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こうした西郷生存説が吹き荒れていた為、ロシア帝国皇太子ニコライ来日に西郷も随伴し、政府に復帰する、と信じる者が数多いました。西郷が政府に返り咲けば、大きな影響を及ぼす地位に就くのは間違いありません。

政府に不満を抱く国民は西郷さんなら国民の為の良い政治をしてくれる、と期待しました。しかし、その一方で西郷が政府の重鎮になるのを不満、いや、恐怖する者もいたのです。

ニコライを襲撃した巡査、津田三蔵はそんな一人でした。津田は何を恐れたのでしょうか。

西南戦争に関係していました。津田は西南戦争に従軍し、戦後に勲章(勲七等)を授与されました。西郷が政府に戻るとその勲功が剥奪されるのではないか、更には巡査を免職されるのではないか、と怯えたのです。

もっとも、ニコライ襲撃後、逮捕された津田は動機についてはっきりと供述していません。当時のロシア恐怖症に駆られての凶行と推察されました。西郷復帰を恐れたという動機も津田が動機を語らなかったから流れた憶測です。

ともかく、津田のニコライ襲撃事件は日本中を震撼させました。ニコライが西郷を伴って来日しなかったことに加え、津田の傷害事件によって西郷生存説は吹き飛んでしまいました。この事件以降、西郷が生きていると信じる者、噂する者はいなくなります。代わって、日本中にニコライへの謝罪、津田を死刑に、という声が溢れ返りました。

ロシアが攻めて来る。ロシア軍に日本は占領されてしまう、ロシア恐怖症が日本列島を覆いました。明治天皇をはじめとした皇族や政府閣僚が、ニコライが入院していた京都の病院まで見舞に訪れます。

なんと、自害した女性もいました。この女性、畠山勇子というのですが、彼女は京都府庁の門前でニコライへの謝罪の言葉を書き記した遺書を残し、刃物で咽喉と腹を切って自害したのです。マスメデイアは、「烈女勇子」と大々的に報道し、盛大な追悼式が催されます。

世論は津田三蔵を死刑にせよ、の一色に染まります。こうした世論が後押しとなり、津田を裁く大審院(現最高裁判所)に政府は圧力をかけます。津田に死刑判決を下せ、というものです。内務大臣西郷従道、司法大臣山田顕義が大審院院長児島惟謙に津田を死刑にせよと迫ります。

しかし、児島は従わず、あくまで当時の法に則って判決を下しました。普通謀殺罪の未遂事件として無期徒刑としたのです。政府の圧力や感情的な世論に屈せず、児島は司法の独立を守ったのです。津田は収監され、事件からおよそ四カ月後の九月三十日に急性肺炎により獄死しました。

まさしく、「オソロシア」がもたらした事件ですね。一つの傷害事件ですが、世論の沸騰が政府や国民を煽り、事件とは何の関係もない女性の自死、政府による司法介入を招いたのでした。

(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年7月29日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)

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image by: XCVpercentum / Shutterstock.com

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1961年岐阜県岐阜市に生まれる。法政大学経営学部卒。会社員の頃から小説を執筆、2007年より文筆業に専念し時代小説を中心に著作は二百冊を超える。歴史時代家集団、「操觚の会」に所属。「居眠り同心影御用」(二見時代小説文庫)「佃島用心棒日誌」(角川文庫)で第六回歴史時代作家クラブシリーズ賞受賞、「うつけ世に立つ 岐阜信長譜」(徳間書店)が第23回中山義秀文学賞の最終候補となる。現代物にも活動の幅を広げ、「覆面刑事貫太郎」(実業之日本社文庫)「労働Gメン草薙満」(徳間文庫)「D6犯罪予防捜査チーム」(光文社文庫)を上梓。ビジネス本も手がけ、「人生!逆転図鑑」(秀和システム)を2020年11月に刊行。 日本文藝家協会評議員、歴史時代作家集団 操弧の会 副長、三浦誠衛流居合道四段。 「このミステリーがすごい」(宝島社)に、ミステリー中毒の時代小説家と名乗って投票している。

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【著者】 早見俊 【月額】 ¥440/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎週 金曜日 発行予定

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